夢を見ていた。
永遠に目が覚めなくても構わないほど良い夢だったのに、顔の上に何かが覆い被さっているような息苦しさを感じて腕を振り回している内に、現実に戻ってしまった。ついでにベッドから落下。白いシーツの出口を探す内に汗をかいていた。ようやく十分な空気を吸い込み、一息吐いたチハヤは、隣室から聞こえてくる声に耳を澄ませた。
タバタとルーイチが云い合っている。
「タバタのせいじゃない」
「俺のせいだよ」
サクラダ。
日記。
「そうだ」。
監視リストの曖昧。
疑念。
「あれは」。
たーた。
医者。
「かくじつに」。
ナナタ。
誤解。
「おれがころした」。
話し声が途絶える。どちらかが出て行ったようだ。出勤時間が間近のルーイチの方だろう。
チハヤはシーツを張り直すと頭からクロゼットに潜り込み、奥からボストンバックを引っぱり出した。洗面所へ歯ブラシを取りに行く。部屋に戻ろうとすると、ちょうど隣室から出てきたタバタとぶつかった。ここへ来てから伸び放題の髪が乱れている。
「金は。乗り物に乗る時は金が要るよ」
チハヤは慎重に首を左右に振る。
その強張った頬を骨張った指で撫で、そこに違う物を見るように目を細めたタバタが、自室から財布を取って戻って来た。ありったけの紙幣を手渡され、戸惑っているチハヤにタバタは笑いかけた。
「何その顔。俺が優しいのが怖いんだ」
「・・・」
「ここへは、もう戻るな」
チハヤは頷きもせず目線を少し落とした。
「サクラダ・ジオの所だろう。行けよ」
その言葉を聞いたチハヤは部屋に戻り衣類を詰めたバッグを肩に担いで2DKを出た。
振り返らないように。
二度と戻らないために。

長い指と広い手のひらが器用に、と云うよりはもはや魔法のように、ぶどう色の小猫をつくりあげる様子を見ていた。ゴムの擦れる、きゅび、きゅび、という音。初めて見た時は、そんなに強く捻ったり引っ張ったりしたら割れてしまうんじゃないか、と心配だった。
しかしジオの手の中で割れた風船をチハヤはまだ一つも見ていない。
「どこがしっぽになるか分かる?」
ジオの声はいつ聞いても穏やかだった。
朝の「おはよう」も夜の「おやすみ」も、咎めている筈の「どうして」も些細なことでも誉める材料にした「えらいな」も、くだらない理由のための笑い声もずっと前から呼び慣れているような呼び声も、どれも。
「ここかな?ううん、ここは、耳なんだ」
白いソファの上に乗り、チハヤはジオの横顔を見た。左から、次は右から。視線はぶれない。
「じゃあ、どこかな」
前から、そしてもう一度左から。やはり視線はぶれない。
「指で教えて」
チハヤはジオの動かす風船の一箇所を指差した。
初めてチハヤの人さし指のありかを発見し、ジオが嬉しそうに笑った。
「そうきたか」
楽しい時間は終わらない。小猫の次は薔薇。薔薇の次は亀。チハヤは亀という生き物を見たことがなかったのでそれが亀に似ているのか似ていないのか判断できなかったが、それが亀なのだと思うことにした。
「さあ、チハヤ。次は何をつくって欲しい?おれは何でもつくれるよ。宇宙人でも恐竜でも。ゾウでもカエルでも。神さまだって風船ならこんな上手いこといかなかっただろうなあ」
理由を一度も訊かなかった。
三日前、荷物を持ってターミナルの改札を出て来たチハヤと仕事帰りにばったり会い、一緒にバスで帰宅した。ミセス・サクラダはチハヤを歓迎したし、それどころかチハヤが来ることを予め分かっていたように三人分の食事を準備していた。チハヤは久しぶりに温かいご飯を食べた。そして温かいベッドで寝た。隣にはジオがいた。チハヤが寝るまでジオは本を読んだ。あの穏やかな声で。

「お昼ができたわよ。食べるならいらっしゃい」
階下からミセス・サクラダの声がする。
「今行く」
そう云うとジオはまだ風船で遊びたがるチハヤを軽々と抱え上げ、そのまま階段を降りて行った。ふたりを見たミセス・サクラダは大笑い。「何てこと!」。
昼食を済ませるとジオは仕事の準備を始めた。
チハヤが見ていることに気づくとジオは云った。
「ああ、チハヤがそんなに哀しい顔するんだったら、一緒に連れて行ってしまおう」

ターミナルの改札を出てバスを乗り継ぎ、ふたりはモールに到着した。C字型の建物の中央には大きな噴水があり、噴水を取り囲むように見世物スペースがある。
世界最小のサーカス。
影絵のパレード。
奇跡のような手品ショウ。
奇天烈劇団。
逆立ちしたり、後ろへくるっと一回転。二回転。三回転。
あちこちに小さな人だかりが幾つもできていて、時折歓声や、あっ、という悲鳴、拍手、音楽。
そんな混雑の中にチハヤはCTやDGを見かける。誰も気に止めない。ここが特別の場所なのか、他人を気にする暇がないのか、それともあの耳や尾が本当にくっついているとは思わないのか。案外、そんなものかも知れない。
彼らは誰かに手を引かれていたり、ひとりぽっちだったりする。チハヤは彼らの手を引いている大人の顔を見る。どれも同じに見えた。だが実際にはどれも違っていた。
チハヤは何度も迷子になりそうになったが、ジオはすぐに気づいて足を止めた。
「こっちだよ」
まるで目が見えないのはチハヤの方のようだった。
ようやく立ち止まったジオが肩から掛けていた黒い箱を置いたのは、アイスクリームショップの前で、ガラス越しに客が見ている。
「今日もここは世界一賑やかだ」
帽子を斜めにかぶり直したジオが黒い箱を開けた時、チハヤの傍に見知らぬCTが寄って来た。
「レンか?」、いち早く気づいたジオが云う。
チハヤは、ジオに「レン」と呼ばれたCTを見た。
レンもチハヤを見てにっこり微笑んだ。
茶色い目。
耳は大きめの正三角形。
赤い首輪。
尾は先だけ白い毛が混じっている。
年はチハヤと変わらない。もっともCTやDGのほとんどは去勢されているので見ただけで年は分からない。去勢することで子どものような顔と、雄でも声変わりせず高い声のままいられる。
「こんにちは。ぼく、レン。きみの名まえは?」
すらすら喋るレンにチハヤは驚いた。
「チハヤ。レンはCTだよ。おれのかわいい常連客さ。レン、この子はCTのチハヤ。耳としっぽはないけどな。近頃おれの家で暮らしてる。レンのようには喋れないんだ」、横からジオが云う。
「そうなんだ。よろしくね。チハヤ」
握手をしたレンは、チハヤの体を頭のてっぺんから足の爪先まで、遠慮なく何度も見た。

出会ったばかりのふたりは並んで座り、ジオの仕事を見学した。 ジオはたくさんの子どもたちに囲まれ、おねだりされた動物や植物、文字や乗り物をつくりあげる。新しいおねだりのある度、ジオの足下の帽子には紙幣が増えていく。
チハヤは頬杖をついて見ていた。
あちらこちらに三角の耳、丸っこい尾なんかが見える。
やはりここは特別な場所なのだ。
子どもは例外なく首輪をしている。そして首輪をしている子どもには例外なく耳と尾がある。つまり、CTやDG。
しかしここに来てチハヤが一番驚いたことは、RBの存在だ。
RB、うさぎ。
かつて自分がいた島では見なかったタイプが、ここには呆れるほどある。島も研究センターも医師も相当数いるらしい。そういったことに関して、レンは詳しかった。自分の所有者がアイルへの出資をしているからだ、とレンは説明してくれたが、チハヤにはよく理解できなかったし、特に興味はなかった。今はただ、次々と目に映る見慣れない物へ意識が集中していた。
「ごらん。チハヤ」
ぼうっとしていても時間はすぐに過ぎる。
レンが教えてくれた通り、やがて正午を知らせる音楽。噴水の向こう側に大きな時計があって、そこから人形が出てきてくるくると回った。月色の髪に青い目の人形。背中に羽が生えている。チハヤはその姿をどこかで見た気がした。
レンが立ち上がった。 「時間だ。ぼく、帰らないと。約束してあるんだ」、と首輪を指差す。所有者と、という意味だろうか
つられてチハヤも立ち上がった。
「チハヤ、明日もここにおいで。友だちを連れて来るから」
チハヤが頷かないのを気にしない様子でレンは向こうへ走って行った。ポシェットが揺れる。混雑の中にいつの間にか現れた所有者らしき人物が、レンの手を引いて去るのが見えた。表情のない大人だった。チハヤはそのことを少し意外に感じたが、すぐに気にならなくなった。
「退屈?今度は見る側になって回ろうか」
ジオが笑顔で戻って来たからだ。