月の光を頼りに、歩き慣れた屋根を歩いた。
ついにこの高さにまで這ってきた蔓に足を取られないよう、慎重に一歩一歩踏みしめる。尾でバランスを取りながら隣家のベランダに降り立ち、中の様子を窺った。
薄暗い部屋の中央には円形のベッドが置かれている。
端に誰かが横たわって窪んだ部分。
正体を確信し窓から忍び込むが、一向に動く気配がない。
「レン、起きてるか」
小声で呼びかけるが返事はなかった。
その代わり尾が揺れた。
「・・・レン」
天蓋から垂れ下がるレースの隙間から滑り込み、シーツにくるまった体を小さく揺する。
ようやく瞼が開き、潤んだ瞳がナオの姿を認めた。
「見つかってボコボコにされても知らないよ」、掠れて細い声。
「あいつらは会合に行ってる。帰りもきっと遅くなるって」、ナオはできるだけ明るく云ったが、レンの表情は浮かなかった。
開けっ放しの窓から風が入ってきてレースをなびかせる。
レンが寒がるように身を縮めたので、ナオは急いで窓を閉めに行った。
窓から見えているのは大きな満月だった。
光を湛えて肥えている。
メトロポリスを遠目に見ながら、念のため耳を澄ませる。駐車場に車はない。ゲートのセンサーが正常に作動していることを示す赤いランプ。レンやナオのように、首輪を付けた者が通過すると反応する。センサーが発する信号は所有者の受信機に直接送信される仕組みになっている。
以前ふたりは夜のメトロポリスを見に行こうと部屋を抜け出したことがあった。その時もセンサーが作動してゲートが開かなかった。しかも無断外出しようとしたことが知れてお互い所有者にはこっぴどく叱られた。
レンは一週間部屋から出してもらえず、ナオは三日間食べ物を貰えなかった。
それでもふたりは懲りずに色々な方法を試した。
裏口、塀、垣根の抜け道。
しかしいずれも成功しなかった。あらゆる場所にセンサーが張り巡らされており、唯一自由に行き来できるのは、同じ塀の内にある、隣り合った二つの邸宅の二階同士のみだった。屋根の上を渡ることは危険を伴うが、そこを渡らなければ会うこともままならない。
「お腹痛い。たぶん明日はモールに行けない。チハヤに会えない。・・・さいあく」
その言葉にナオは振り返る。
レース越しに見るレンは白いシャツを一枚羽織っただけの姿だった。
シャツの裾には赤い染みが広がっている。
「お、おれがいるだろ」
「ナオか。・・・はあ、つまんない」
脱いだシャツでレンは自分の内股を拭い、汚れた布きれを丸めて隅へ投げた。
引き出しから新しい下着を取り出すとナプキンをあてる。
「・・・なあ、レン。あんな奴、あてになるかよ。そもそもCTかどうかも怪しいし」
「耳の跡があったよ。ぼく、この手で触ったもの」
「だからって、あいつに何ができるんだ。喋れもしない、愛想も悪い。おれたちのことなんか何とも思っちゃいないって」
「うん。そうだね」
「レン、何を考えている?」
「耳としっぽを取ってくれる人、チハヤなら知っている、ってことだよ」
ギンガムチェックのワンピースを頭からかぶり、もう一度ベッドの下へ潜ると新しいシーツを取り出す。
「ちょっと、突っ立ってないで手伝ってよ」、レンに云われたナオは急いで汚れたシーツを剥いだ。
ふたりで両端を持ち、シーツを張る。
空気の流れを受けた天蓋はふたりの頭上でカラカラと音を立てて回った。
白いレース、ワンピース、くらげのように、ふんわりと舞い上がる。
「・・・レン、おれたちだけでだいじょうぶだよ。この首輪さえ外せば良いんだろ」
「そんな簡単な話じゃないって云ってるだろ。首輪を外すってことは、誰も身分を保証してくれないってことだ。だからチハヤには耳もしっぽもないんじゃないか」
「でも、チハヤの耳を取ったやつがおれたちの耳を取ってくれるとは限らない」
「・・・それは、限らないけど。じゃあ他に何かある?」
「・・・」
黙ったナオを責めるようにレンは枕を投げ付けた。
「ナオの役立たず。ばか」
受け止めた枕を正しい位置に置き、ナオは慌ててレンの後をついて部屋を出る。
階段を下りると一階の玄関ホールの前に出る。そこにあった大きな袋の中にシーツとシャツを投げ入れ、レンは寝室へと向かった。
サイドボードの上に革の手帳が置いてあり、レンはぱらぱらめくる。
「来週末のパーティー。この日が、ぼくとナオの番だ。本当は今日だったんだ。だけどぼくが生理で中止になった」
聞いていたナオが顔を赤くして俯いた。
「あのひと、わざとぼくたちを去勢しなかった。ぼくに子どもを産ませる気だ」
「まさか。何のために・・・そんなわけ、」
「ある!」、レンの投げ付けた手帳がナオの頬をかすめて壁にあたった。
「おもちゃなんだよ。おもちゃがたまたま生きてるんだ。何のために、って、楽しいからに決まってるだろ。おもちゃ同士やってたら楽しいだろ。おもちゃがおもちゃの子ども産んだら楽しいだろ。今さら何も知らないふりして、どうして、とか云うな、お前いらいらする!」
床に落ちた手帳を拾って、ナオは元の位置に戻した。
「・・・レン」、ごめん、もう云わない。
「うう、考えただけで吐きそう。きもちわるい」
「だいじょうぶか、レン」
「子どもなんて、きもちわるい。もしも何もかもうまくいかなくて、ぼくのお腹に変なものができたら、その時は、ぼくのこと、ころしてよ」
「・・・レン」
「ナオが、ころしてよ」
満月は寝室からも見えた。
レンは床の上に力無くぺたんと座り込むと、両手で顔を覆った。
堪えきれずに漏れた泣き声がナオの胸をじわじわ押し潰してゆく。
広い邸宅に今はふたりしかいない。
そして誰も救ってくれない。
抱き締めれば嫌がられそうで、ナオはおそるおそるレンの髪を撫でた。
「なあ、泣くなよ。レン。ぜんぶうまくいくから、そんな泣くなよ。ころしてなんて、云うなよ。な、な」
ふたり分の涙が、ぽたぽたと落ち続けた。
溢れ出す嗚咽をどうしようもなかった。
「・・・ころしてなんて、云うなよ」
重くあたたかな闇。
だけどいつまでもふたりを匿ってくれない。