三日間レンはモールに姿を現さなかった。
チハヤはジオの横で風船を膨らませる手伝いをしていたが、途中で気まぐれにモール内を歩き回り、赤い首輪を探した。
「おい、チハヤ」
最上階のドリンクバーの前を通りかかった時、チハヤは後ろから声を掛けられた。振り返ると紫色の首輪をしたDGが立っている。辺りに所有者らしき姿はない。向こうもこんな場所でばったり出会った相手に驚いているようで、思わず声を掛けてみたものの、何から喋れば良いのか考えあぐねている様子だった。
「おれのこと覚えてるか?」
あっさり首を横に振ったチハヤを見てDGは溜め息を吐いた。「ナオ、だ」。
ふたりはしばらく見合っていたが、何かを諦めたようにナオが踵を返したのでチハヤは後をついて行った。
「奢ってやる。選べよ」
その言葉に促され、ピンクの飲み物の写真をチハヤは指差した。店員がナオの首輪に細い金属製のペンのような物で触れる。ピッ、と音がしてレジスターに値段が表示された。それで支払いは済んだようだ。
「便利だろ」
メトロポリスが一望できる場所に席を見つけ、ふたりは横に並んで座った。
下から飛んできた赤い風船が風に翻弄されながら空にのぼっていく。
誰かが手を離してしまったのだろうか。
チハヤは太めのストローに口を付けた。ナオが見ていることに気づいて飲むのをやめた。
「・・・」
ナオの手がゆっくりと伸びてきて、チハヤは思わず身を退いた。
躊躇ったように宙で停止した手が、それ以上後退しないチハヤを確かめると再び伸ばされて、頬に触れた。冷たい指が髪を梳く。探していた部分に辿り着くと何度もそこを撫でた。
「本当だ」、と呟きナオは前に向き直った。その様子を見届けてからチハヤも前を向いた。
赤い風船はもうどこにも見あたらなかった。
「いきなりこんなこと云っても聞いちゃくれないと思うけど、おれから頼みがあるんだ」
「・・・」
「お前の耳としっぽを取った人に、会わせて欲しい」
「・・・」
すでに空になったカップの底をチハヤはストローの先でつつく。小さくなった氷が砕けた。見るとナオのカップにはまだ半分以上残っている。
「レンの耳としっぽ、取ってやって欲しいんだ」
レン、の名前を聞いてチハヤはゆっくりとナオを見上げた。思い詰めたようなナオの横顔には微かに戸惑いも滲んでいた。
首筋に見たことのない痣がある。
服の中にまで続いている。
「欲しい物あったら買ってやる。金ならいくらでも盗み出してくる。おれたちの所有者、アイルに出資してるような金持ちなんだ。メトロポリスの一等地に家建てることだって、何てことない。さっきも見たろ。おれの首輪使えば、口座から直接引き落とせるんだ。お金ならいくらでも出せる。だから・・・会わせて欲しい」
頼む、とナオは頭を下げた。
カップの底の氷は溶けきっていた。
「もう、レンが泣くの、嫌なんだよ」
顔を上げたナオが縋るような目をする。
「・・・チハヤ」
つと目の前に差し出されたチハヤの手と相変わらずにこりともしない顔を交互に見、ナオはようやくその手を握った。


いつもなら自分より先に準備を済ませて玄関で待っている筈のチハヤの気配が感じられず、ジオはリビングに戻った。
「もう行くよ、チハヤ」
庭の手入れをしていたミセス・サクラダが顔を出し、帽子を脱ぎながら云う。
「とっくに出掛けたわよ」
「え?出掛けたって?」
「あの子だってたまにはあなた以外の友だちと遊びたくなるわよ。クッキーと水筒を持って出掛けたわ。遠出するんじゃないかしら」
ミセス・サクラダの言葉を聞いたジオはがっくりと肩を落とした。
「くそ・・・どこのどいつだ。おれのチハヤを」
「何云ってるの。バスに遅れるわよ」
「うう、チハヤ・・・」
とぼとぼ歩き出した息子の背中を見ながら、ミセス・サクラダは小さく笑った。


一月前に、もうここへは戻らない、と心に決めて開けたドアの前に再びチハヤは立っている。背伸びしてチャイムを鳴らした。返事はない。チハヤはもう一度背伸びした。
「いないのかな」、後ろからナオが云う。
その隣でレンは不安そうに辺りを見回している。
「ねえ、本当にこんなところに住んでいるの?お医者さんってお金持ちばっかりじゃないの?」
三度目のチャイムを鳴らしてもいっこうに返事がなかったので、チハヤはドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていない。そのままドアを大きく開けるとレンとナオもこわごわ奥を覗き込んだ。
「暗いね」
「いるかな?」
長い廊下の先がリビングで、その手前に部屋が二つある。
小さい方がかつてチハヤの、大きい方がタバタとルーイチの部屋だった。しかしふたりが同じ部屋にいたことはほとんどない。玄関の棚に置かれている鍵が一つしかない。今日も不在なのだろう。それとも、もうふたりは一緒に暮らしてはいないのかも知れない。
「音がする」
ナオが耳を立てた。レンも同じようにする。「本当だ。音がする」。
チハヤを先頭に三人は廊下を進んで行った。
リビング。
中途半端に閉めたカーテンからぼんやりと光が射し込んでいる。ソファの向こうから腕だけが見えて、ひっ、とナオが飛び上がった。
「変な声出すな。ナオってほんと恐がりだよな」
「いや、だってさ・・・腕が、こう、変な形に見えて」
レンに罵倒され、ナオは必死だ。
そんなふたりを後に残し、チハヤはソファの前に回り込んだ。
月色の髪は肩より伸び、整った鼻筋に掛かっていた。
テーブルの上には吸い殻が山積みの灰皿と新聞紙。ざらざらの音を発していたのは旧式のラジオ。今時どこにも売っていないだろう。退屈を持て余してつくったものかも知れない。
「これ、 女か?」
小声でナオが云う。
「起こさない方が良いな」、レンが云った直後にチハヤがぺちぺちと頬を叩く。
緩やかに開いた青い瞳が差し込む光をまともに受けて眩しそうに閉じられる。
チハヤはもう一度頬をぺちぺちと叩いて二度寝を阻止した。
「・・・んん」、上体を起こしたタバタは自分がどこにいるのかさえ分かっていないような様子で辺りを見回した。
チハヤ。
と、二匹。
何度か瞬きしながら髪を束ね、眼鏡を掛ける。
「あの、はじめまして。こんにちは。ぼく、レンです。それで、こっちが、」
「ナ、ナオです」
「突然押しかけてすいません。ぼくたち、あなたにお願いがあって来ました」
「チハヤに連れて来てもらったんです。本当にすいません。寝ていらっしゃるところにいきなりお邪魔して」
しどろもどろなふたりを一瞥し、タバタはチハヤを睨んだ。
「これは何だ」
眠りを妨害された不愉快が滲む態度と口調に「これ」と云われたレンとナオはぶるりと震え身を寄せ合った。
しかしチハヤの真っ直ぐな視線。
根負けしたタバタが煙草を探すふりをして目を逸らしたところで、レンが勇気を振り絞る。
「あ、あの、突然やって来てこんなこと云うのはたいへん、ひじょうに失礼だとは思うんですが、その・・・耳としっぽを取って欲しいんです。ぼくたち、チハヤみたいになりたいんです」
ナオが付け足す。「お金ならあります。いくらでも払います」。
「帰れ」
冷たく云い放つタバタの袖をチハヤが握る。
「そんなに金があるなら他をあたれ」
「普通の医者はそんなことしてくれません」
「俺は異常な医者?」
「い、いえ、そういうつもりで云ったんじゃありません。だけどあなたはチハヤの耳としっぽを取ってあげた人です。そんなことをしてくれる医者は、ぼくたちには見つけられないです」
タバタはレンの首輪に目を凝らした。それから、ナオの首にも同じようなものが巻かれていることを確かめる。
「お前たち、こんな所にいること自体やばいんじゃないのか。これは出資者の所有権を示す首輪だ。なるほど、その姿でここまで来られたわけだ。この首輪がないとCTだろうがDGだろうがターミナルに入ることすらできない筈だ」
ラジオの電源を切り、タバタは取りだした煙草に火を点けた。
レンとナオは身動きもせずおとなしく見守っている。
「お前達がどういう事情か知らないけど、俺にその権利はないんだ。その権利があるのは、お前達の所有者なんだ。知ってるだろ?知ってて来たってんなら、余計にごめんだ。ここじゃ厄介事に巻き込まれたくないんでね」
吐いた煙が天井へ上っていく。
チハヤは掴んだ袖を離さない。
タバタはじっと見下ろし目を細めた。
「信じられないな。チハヤ、お前がそんな目するなんて。だけど、無理なものは無理だ。諦めろ」
「・・・、」
チハヤは口を動かしたが声にならない。
それでも繰り返し、繰り返し、口を動かし続けた。
タバタが、やめてくれ、と目を覆った。
「やめてくれ。お前たちを見てると、思い出すんだ」
た、
あ、
た。
「お願いです・・・!他に頼める人がいないんです。あなたしかいないんです」
タバタは掴んだ灰皿を壁へ向かって投げた。
「聞こえなかったか。諦めろって云ったんだ」
さらにナオが踏み出そうとするのをレンが制した。
「・・・レン」
レンは、行こう、と首を横に振った。
「・・・お邪魔しました」、その姿を見てナオもしぶしぶ頭を下げた。
三人が玄関を出ようとすると、またラジオが鳴り出した。
ざらざらした音。
意味のない音。
だけどある人にとっては、それがなくては、呼吸さえできないのかも知れない。

行きとは打って変わって帰りは三人とも静かだった。
どの表情も暗く沈んでいる。
堪りかねたナオが口を開く。
「おれ、明日もう一度頼みに行ってみるよ」
しかしレンが首を横に振る。
「何度行っても同じことだよ。それに、二日も続けて外出するのは危ない。今日だって、帰ったらどんな目に遭うか・・・」
「だいじょうぶだって。友だちの家だって云ってある」
「調べれば分かることだ」
「どうしてそんなに諦めてるんだよ、レン。もう一度行こうよ」
「諦めとか、そういうことじゃない。あの人の云うことももっともだと思っただけだ。あの人にもあの人の立ち場がある」
それからレンはチハヤに笑い掛けた。
「ありがとう、チハヤ。お願いを聞いてくれて。きのうの夜も何度も練習したのに緊張しちゃって。うまくお願いできなかった。でも、ぼく、もう少しこのままで良いよ。実はちょっと気に入っているんだ。しっぽの先っぽが白いのとか」
茶色い瞳が本当はひどく無理をしていることを感じ、チハヤは項垂れた。
「・・・」
三人を乗せたモノレールはやがてターミナルに到着した。
ここからチハヤはバスに乗り換えないといけない。
窓越しに手を振って、モノレールが見えなくなるまで見送った。

午後四時の赤い陽がターミナルを満たしていた。
ようやくとぼとぼ歩き出したチハヤはバス停に見慣れた後ろ姿を見つけた。まぼろしを見たような気持ちで目を擦り、もう一度確かめる。
まぼろしなんかではないジオの背中だった。
「・・・、」
駆け寄って飛びついた。
驚いたジオがすぐに正体を察して抱き締める。
「チハヤ。今日おれひとりで寂しかったんだぞ。お客さんも多くて風船膨らますの大変だった。おれを置いていったいどこまで行ってたんだ。・・・おい、そんなにぐいぐい引っ張るなよ。どうしたんだ?」
ジオが屈むまで袖を引っ張り続ける。
夕陽が眩しい。
ようやくしゃがんだジオの首に両腕を回し、チハヤは顔を埋めた。
「ははは、どうしたんだよ。迷子になってたのか?こわかったのか?ん?」
チハヤはこくこくと頷いた。
「え、本当にか」
チハヤは首を左右に振った。
「どっちだよ。この、心配されたがりが」
それでもジオは笑った。
ふたりを連れ去ってしまうモノレールの音をもう聞きたくない。
早く温かな家に帰りたかった。
温かなスープ。
温かな部屋。
温かな、温かな、温かな。
ちがう。
冷たくても、ジオがいるならどこでも良かった。
本当は。
ふたりが離れずにいられれば、どこでも良かった。