今日はどこへも行かないよ。
不安げな表情を浮かべているナオにそう云って、ジオは昼過ぎまでベッドで横になっていた。
早起きしたチハヤはミセス・サクラダと一緒に庭の草むしりをしている。二階の窓からその様子はよく見えた。雑草と間違えてハーブを引っこ抜いてしまったことを注意されている。怒られたチハヤはミセス・サクラダから離れた場所で土遊びを始めた。溜め息を吐いたミセス・サクラダは引っこ抜かれたハーブを元の場所に植え直し、花壇の手入れを再開する。
「仕事へ行かないのは、おれのため?」
申し訳ない気持ちから自然と声が小さくなってしまう。
枕に顔を埋めてジオが笑う。
「おばかさん。休みって決めてたんだってば」
見下ろす視線に気づいたチハヤがふいに二階の窓を見上げる。ナオは笑って手を振ったが、チハヤは素知らぬ顔で土遊びを再開した。どうやら自分に視線を送る正体を確かめられさえすれば良かったようだ。
「チハヤってさ・・・いっしょにいて楽しい?」
「楽しくない?」
「あ、好きだよ。かっこいいよ。他人の目を気にしないところとか、何云ってもおどろかないとことか、体はちっちゃいのに、こわいものなしなとことか。おれ、逆なんだ。がたいは大きいのにすごくこわがりで、それに、すごくよわいんだ」
「小さくて強くても、大きくて弱くても、それはそれでチハヤで、ナオだよ」
「・・・うん」
「楽しいよ」
「え?」
「さっきの質問だろ。おれは目が見えない、チハヤはしゃべれない。こいつら毎日どうやって過ごしてるのかな、って思ったんだろ」
云い当てられたナオは、ばつが悪かった。
窓辺から離れてソファの上で膝を抱える。ゆうべのチハヤの寝姿を思い出し、こんなにちいさかったっけ、と思う。
「見えていても見えていなくても同じことだよ。笑っていても笑っていなくても、同じこと。チハヤだって、嬉しい時には嬉しいし、哀しい時には哀しいんだ。いつもよりちょっと歩くのが速いとか、いつもよりちょっと多く食べるとか。知ろうと思えば何だって手がかりになるんだよ」
「ジオは・・・好き、なんだね」
「うん。それに、ときどきおれに喋りかけようとしてるんだ。最初は全然そんなことなかった。歩く時も五歩くらい離れて歩くし、モノレールに乗った時もわざわざ後ろの列。そのくせじっとこっち見てるの。そういう視線を感じたな。だけど、最近あっちから喋ろうとしてくれるんだ。背伸びしたり自分から触ってきたり、そういう仕草も多くなったかな。何かを伝えようとしてくれてるんだよ。それって、それだけで嬉しいものじゃないかな。伝わらなくても、伝えたいって気持ちは伝わってるんだ。ちゃんと言葉にならなくても、伝わってる。そういうことが、おれは、嬉しい」

その夜、ナオはサクラダ邸で初めてのお風呂に入った。昨日は安心と疲労からすぐに眠ってしまい、お風呂には入れなかったのだ。洗面所には大きな鏡があり、そこに映った自分の体を見てナオは顔をしかめた。痣の後が消えていない。パーティーの後はいつもそうだ。分かっているから鏡は見ないようにしてきたのだが、ここへ来て気が抜けてしまったようだ。思いがけない場所に鏡があるのもいけない。


パーティーが始まる前に所有者はナオを縛る。ビロードの上に転がされて開演を待つ。 着飾った大人が次々に入って来る。他のDGやCTも所有者ごのみに仕立てられている。室内に協奏曲が流れる。最後にやって来るのはレンと、レンの所有者。ナオの所有者の兄だ。蒼白な顔に誰かが化粧をする。フリルがたくさん付いた洋服を何枚も着せ替えられる。大人はそのことをレンが喜んでいると思っている。しかしナオは知っている。
レンは、女の子らしいドレスなんか、だいきらいだった。


鏡の前のナオが自分の姿を睨めつけているところで、洗面所のドアが開けられた。
「・・・チハヤ」
「・・・」
「な、なに見てんだよ」
慌てて浴室のドアを閉め、お湯の中に飛び込む。
ナオは鼻先まで浸かりながらドアの向こうの気配に耳を澄ませる。
服を脱ぐ音がした。
「お、お前は入ってくんな」、ナオが云い終わらない内にさっさと浴室に入ってきたチハヤの体を見、ナオはそれ以上何も云えなくなった。
「・・・」
呆然とするナオを無視し、チハヤは肩からお湯を掛けた。
無数の縫合痕は湯気の中でもはっきりと分かった。
浴槽は大人が四肢を伸ばしても余るほどの広さだったので、ナオとチハヤがふたりで入ったにしてもちっとも窮屈ではなかった。
「・・・チハヤ、お前、」
湯気の向こうで唇を結んだ横顔はやはり素知らぬ顔をしている。
「チハヤだって、嬉しい時には嬉しいし、哀しい時には哀しいんだ」。
今日の昼間に聞いたジオの言葉が、ナオの頭の中で再生される。
「知ろうと思えば何だって手がかりになるんだよ」。
ふたりは黙ったまま長いこと湯船に浸かっていたが、次第にどちらがより長くお湯に入っていられるかを競っていた。湯気は充満する。血液が体中をどくんどくん云わせている。額から汗をたらたら垂らしながら耐えているお互いの顔を見て、お前が先に出ろよ、とばかりに睨み合っていると、洗面所からジオの声がした。
「・・・生きてる?」

入浴後の牛乳は格別だった。
真っ赤な頬で新しい瓶を空けるチハヤを見ながら、ナオはジオに囁いた。
「ジオ。おれ、分かった」
「うん?」
「あいつ、楽しい」
その時、チャイムが鳴った。何の話題で盛り上がっているのか分からないジオとナオ、それから牛乳を一気飲みすることに真剣になっているチハヤを横目で見やり、ミセス・サクラダはゆっくりと腰を上げた。
玄関先には先ほど電話で会話した男と、他にふたりの男が立っていた。
ミスター・ノーザンを名乗る男が内ポケットから一枚のカードを取りだしてミセス・サクラダに手渡す。カードは彼がナオの所有者であることを示していた。リビングから響いてきた声を聞き、ミスター・ノーザンは他の誰にも分からないよう口の端をつり上げた。
「ここか・・・」
それから後ろのふたりを振り返る。
「警察の方、ありがとうございました。このような所にいたとはね。まったく、お騒がせなやつでして」
「いえいえ、発見できて何よりです。ミスター・ノーザンの大事なDGが事故にでも巻き込まれていたら大変ですから」
ふたりの警官は、高額出資者として名高いミスター・ノーザンに礼をして踵を返した。

玄関から戻ったミセス・サクラダの後ろにスーツ姿の男が立っていた。それがレンの所有者であることにチハヤはすぐに気づく。
「ナオ、迎えに来たよ」
ようやく男の姿に気づいたナオの顔がたちまち青ざめる。信じられないものを見るように目を見開き、ジオの背中に隠れる。
「はは、こちらの居心地がずいぶん良いらしい」、ミスター・ノーザンはミセス・サクラダに笑いかけた。
「いやだ、帰りたくない。ジオ、こいつだよ。こいつが本当に悪いやつなんだ」
「何を云ってるんだ。おかしな子だな」、ミスター・ノーザンは後ずさるナオの腕を掴んだ。
「あのことはもう怒らないから。私と帰ろう」
「チハヤ、こいつだ。レンをあそびころしたんだ」
無理に連れ帰ろうとすれば余計ナオが暴れるだろうと察したミスター・ノーザンは、一旦その手を離し、やれやれと口にしながらもったいらしく頭を振った。
「・・・母さん、どうしてこいつを家に入れたんだよ」
ナオの怯え方にただならぬものを感じたジオはその体を自分の背中側に隠しながらミセス・サクラダをなじった。
「まあ、ジオ。こいつ、って云い方はないでしょう。それに、あなた、何て怖い声出すの。その方はその子の所有者でしょう。知りませんかと訊かれたから、家にいますよと答えただけでしょう。まあ、何なの。すいません、本当に」
「いいえ、あなたからお電話があって本当に助かりました。首輪を填めているのでだいたい範囲は掴めていたんですが、何せ田舎は慣れていないのでね。丁寧に道まで教えていただいて。・・・さあ、ナオ。帰ろう」
ミスター・ノーザンが左のカフスボタンを螺子のように回すと、ナオの首輪がきつく食い込んだ。
「さあ、ナオ」
それでも首を振って抵抗するナオに痺れを切らしたミスター・ノーザンは再び首輪の締め付けを上げるためにカフスボタンに手を掛けた。
指の入る隙間もなくなり、縮小する首輪が直接ナオの気道を圧迫する。
「そうだ、ナオ。食事へ行こう。まだだろう?」
「・・・いや、だ、だれが、おまえとなんか」
さすがに見かねたミセス・サクラダが口を挟む。
「あの、泊まっていってもよろしいんですのよ。部屋もありますから」
「いいえ。甘やかすとつけ上がってしまいますので。そのことはあなたもよく御存知でしょう?DGには厳しい躾が必要なんです。ご厚意には感謝します、ミセス・サクラダ」
その時、ミスター・ノーザンの手首に、牛乳瓶が飛んできた。
拍子にカフスボタンの捻りが元に戻り、ナオが咽を鳴らしながら息を吸う。
落ちた瓶は床の上で砕けた。
「まあ、チハヤ!何てことするの!・・・ジオといいチハヤといい、あなたたちはさっきから何なの」
ミセス・サクラダは慌てて掃除道具を取りに行った。
「おや」、ミスター・ノーザンが片方の眉をつり上げてチハヤを見る。
「おや、おや、おや。これはまた奇遇ですねえ」
自分に近寄ることを許したくない相手だったが、チハヤはぐっと堪えて睨み返した。
「まだ分かりませんか?」
鼻先が触れ合うほど顔を近づけられた時、チハヤはついに両手で体を押し返した。
「そいつに触るな!ぜったい触るな!」、体を起こしたナオが叫ぶ。
「とは云われても、素晴らしい偶然なんだ。触らないわけには、いかないだろ?」
ミスター・ノーザンの手がチハヤの髪を鷲掴みにする。
「・・・っ、」
「他人の空似かとも思ったけど、どうやらそうじゃないみたいですね。ほら、耳の跡がある。本部の許可なくこんなことをできるのは誰ですか。ああ、田羽多くんですね。彼は本当に困った男です。彼が本部の云う通りにしてさえいれば、33Iは潰れなかったんですよ。こちらの資金にだって限界はある。できることなら折角つくった島を丸ごと沈めるなんてしたくない」
ようやくチハヤは自分が目の前の男と以前会った日のことを思い出した。
あれは、チハヤがアイル33Iにいた時のことだ。連絡船から降りてくるなりチハヤを本部へ連れて行くと云い出した。タバタに撥ね返され引き上げたが、自分が本部と繋がりのあることをほのめかした。
あの、男。
「今は出資者の立場です。あなた達も、随分と頑張りましたね。もう一度、不適合者に戻してあげることもできますが。・・・どうぞお友達もご一緒に」
ミスター・ノーザンの目がちらりとジオを見る。
隙をついてチハヤは殴りかかろうとしたが、すぐに腕を押さえ付けられた。
「分かった、帰るよ。おれ、帰るから。ねえ」
ナオがミスター・ノーザンの腕にしがみついた。
「だから、この人たちには手を出さないで」
急にしおらしく縋ってくるナオを見てミスター・ノーザンはくすくす笑ったが、ミセス・サクラダの足音を聞くと顔を引き締めにわかに立ち上がった。
「ごめんなさい、お掃除道具を取り出そうとしたら物が落ちてきちゃって。まずは物置を掃除しないといけないわ。・・・あら、お帰りになるの?」
「ええ、この子もやっと云うことを聞いてくれました」
ジオとチハヤが動こうとするとナオが小さく振り返って「来ないで」と云った。
ふたりの姿がドアの向こうに消えてしばらく経った頃、ジオが云った。
「・・・ごめん、チハヤ。おれがもっとしっかりしてれば」
掃除をしながらミセス・サクラダが溜め息を吐く。
「もう、何を云ってるの」
「こういうことだよ、母さん。ナオは一生、そんなもんだって、人間ってのはそんなやつばっかりだって思いながら生きてくってことだよ」

それを聞いたチハヤはやおら立ち上がり、玄関に向かって走り出した。外へ出ると、ふたりの姿が小径の向こうに消えるところだった。足音を消して付いて行く。ボンネットの広い黒塗りの車が一台停まっていて、ミスター・ノーザンが運転席側へ回り込んだ隙にチハヤは後部座席のドアを開けて中に滑り込んだ。先に助手席に座っていたナオが気づいて声を上げかけ、慌てて噤む。チハヤは後部座席の隅に体を寄せて丸くなった。髪と瞳は同じ色の闇に溶けた。
「どうしたんだ、ナオ」
「あ、いえ」
「レンの代わりを買ったよ。次のパーティーにはそれを連れて行こうと思っているんだ。お前も楽しみだろ?」
「・・・はい」
三人を乗せた車はノーザン邸に向かって走り出した。