車の中に自分しかいなくなり、邸宅の二階の灯りが点いたのを確かめると、チハヤはようやくドアを開けて外へ出た。生け垣に沿って裏手に回り、端から順番に窓の中を覗いていく。鍵の掛かっていない所を見つけると桟に指をかけて持ち上げ、わずかな隙間から小さなからだを滑り込ませた。
そこは書斎だった。
偶然の幸運を内心密かに喜び、チハヤは部屋の中を物色した。机の引き出しからはピストル、本棚の一角から高級煙草を見つけ出し、落とさないようポケットに押し込む。どうしても入りきらなかったピストルはズボンのゴムで体に密着させた。
その時ミスター・ノーザンが近づいてくる音を聞き取り咄嗟に本棚と観葉植物との間に隠れたが、足音はすぐ隣の部屋に入って行った。チハヤは息を吐くと書斎のドアに手を掛けた。静かに回し、暗い廊下に顔を出す。隣の部屋から灯りが漏れている。
チハヤは息を止めてその部屋の前を通過した。
玄関ホールに出、二階への階段を駆け上ってゆく。
二階に上ると、チハヤは突き当たりの部屋に真っ直ぐ向かった。
意を決してドアを開けると、ナオの姿が飛び込んでくる。
チハヤを招き入れ、ドアを閉めると同時に抱き締めた。
「・・・ばか」
しかし感傷的になっている暇はない。
一刻も早くこの邸宅を抜け出すこと。
言葉に頼らなくてもふたりの気持ちは通じ合っていた。
先ずふたりはベッドのシーツを裂き、ロープをつくった。それを地面に垂らし、飛び降りることのできる高さになったところで強度を確かめる。
これらの作業は黙々と行われた。
ロープが完成するとチハヤはナオをベッドに腰掛けさせ、足の間にしゃがみ込んだ。
外した首輪を枕の上に置き、ロープをつたい、順に裏庭へ着地する。
「おれは耳としっぽがあるからターミナルに入れない。首輪のないDGが駅員に見つかりでもしたら元も子もない。送り返されるだけだ。ここからは走っていくしかない。明日の朝になって、あいつが首輪しかないベッドを見つけるまでに何とか間に合えば・・・チハヤはモノレールで行って。あのアパートの前で会おう」
一旦ばらばらになることを提案したナオの頬をチハヤがつねった。ナオの手を取り上げると、ぎゅ、と握り締める。
「・・・チハヤ」
喋っている暇はない、とでも云うようにチハヤは手を引いた。ゲートをくぐる。センサーは作動しない。
夜のメトロポリス33に向かってふたりは駆け出した。


三度目のチャイムが鳴らされても、タバタは体を起こす気になれなかった。
時刻は午前三時。
こんな時間にチャイムを鳴らすなんてろくでもない相手だ。
しかしドアが連打され始めた時にはさすがにしぶしぶソファから立ち上がった。本を読んでいる内に寝てしまったらしい。ラジオの電源はいつものように付けっぱなし。音楽や声を聞きたいわけじゃなかった。意味のない音、思考までざらざらにしてくれる音を出すものが必要だった。
無理にでも忘れるために、呼吸のために。
鍵を開けた途端に飛び込んできたふたつの物体にタバタは押し倒された。
「お願いです、助けてください!」
タバタが以前見たDGだった。
あの時一緒にいたCTは今日はいない。
「・・・俺、朝型じゃないんだけど」
追い返そうとするが今回はしぶとい。タバタはふと、その首に何もないことに気づいた。
「・・・お前たち、どうしたんだ」
見るとふたりとも体中に汗をかいていた。
タバタは唸りながらふたりを家の中に入れ、ソファの上に戻ると髪を束ねて眼鏡を掛けた。その間にチハヤはコップに水を汲み、ソファの前に正座するナオに手渡した。ふたりはタバタの前に並んで正座し、こくこくと咽を鳴らして水を飲み干した。
「お前ついに首輪外したな」
「おれ、もう帰りたくないんです。帰れないんです。耳を、しっぽを取って下さい。お願いします」
前髪を掻き上げた手を額に押し当てたままタバタは再び唸り、時折顔を上げてはチハヤを睨む。
「お前な、ほんとな、ほんとにな、いい加減に・・・」、そこで差し出された箱を見てタバタの目の色が変わった。それはチハヤがミスター・ノーザンの書斎から持ち出してきた高級煙草だった。
今のタバタにとっては砂漠に湧いた水ほど貴重な代物だ。
「お願いします」、ナオが一押しする。
真剣な眼差しに見つめられ、タバタは厄介事は既に起こっていることを実感した。
つとナオの耳に手を伸ばし、生え際の様子を確かめるように軽く引っ張る。
交渉の前進を感じたナオの表情がぱっと輝いた。
しかしタバタは思い直したように手を引っ込める。
「やっぱり、だめだ」
「どうしてですか!」
「金、払えないだろ」
そこでナオははっとした。
首輪を外したということは、お金も下ろせないということだ。肝心な点を見落としていた自分を腹立たしく感じた。
「見返りもないなら、俺だけ危険に晒され損だ。でも、お前たちは吸わないだろうからこれはもらっとく」
そう云うとタバタはチハヤの手から高級煙草を取り上げた。
「さあ、帰った、帰った」
その言葉を聞いたチハヤは静かに立ち上がると二歩ほど後退した。
タバタの手が届かないところに立ち、シャツの下からピストルを取り出す。
「冗談」、タバタが笑うと安全装置を外し、引き金に指を掛けた。
「チーちゃん?何やってんの?」
手招きすると引き金に掛けられたチハヤの指に力が入ったのが分かった。
タバタは高級煙草に火を点けて一服した。
それから、もう一度ナオの耳に触れた。
「・・・分かってる。チハヤ、俺は、お前が俺を撃たないって分かってるよ。そんなことしたらここまで走ってきた甲斐がないもんな。首輪を外した甲斐ないもんな。すべてを棄てた決心の甲斐がない。だろ?」
青い目に見下ろされながらナオは祈るような気持ちだった。
凍りついた青が溶ける瞬間を見た。
ふ、と細くなったのだ。
それは自嘲だったかも知れない。
繰り返してしまう自分への。
「確かに危険に晒され損。だけど、気持ちは分かった」
この手術が、いつか俺を救うかも知れない。
楽観的すぎるかも知れないけど。
希望的観測に過ぎないかも知れないけど。
自分を救うために必要なことは、誰かを救うことだったかも知れない。
思い出すほどに忘れていたけれど。
「取ってやるよ。耳も、しっぽも。首輪なんかなくても、生きていけるようにしてやるからな。痛くても泣くなよ。しばらく手術なんか御無沙汰で腕が下がってると思うから」
そう云うとタバタはどこかへ電話を掛けた。
「・・・ルーイチ?俺。・・・うん。手術室開けといて。・・・うん、緊急。すごい緊急。・・・緊急だって。・・・うん。あ、車一台寄越して。お願い。・・・うん、よろしく」
やり取りを終えたタバタが受話器を元に戻してもチハヤはまだ銃口を掲げている。
「演技じゃないって」
チハヤはじっと見つめながらさらに後退した。あくまでもピストルは渡さないつもりだ。
「少なくとも安全装置は掛けて。本当に危ないから」
その言葉にもチハヤはうんと頷かない。タバタは溜め息を吐きながら部屋へ入った。
「着替えるだけ」
しかし何を云っても無駄なのだと理解したタバタはさっさと服を着替えた。
「・・・ルーイチ、記憶取り戻したんだぜ。医者やってるんだ。そこの手術室貸してもらう。当直だから。運良いね、お前たち。いや、良かったらこんなことになってないか」
ベッドに腰を下ろし、腕時計を填めながらタバタはチハヤを手招きした。
「って、無理か。寄り付くわけないか。お前は俺のこと嫌いだもんな」
チハヤは大きく頷いた。
「うわ、泣きそう」
ベッドに両手を付き、脚を組んだタバタは正面からチハヤを眺めて笑った。
「強くなったな。・・・いや、ずっと強かったか」

しばらくすると電話が鳴り、一階に車が到着したことを告げた。
タバタはナオの手を取って歩き出した。
「この手術は絶対成功させる。俺は一生日陰を歩くよ。だから、それ下ろして」
チハヤはやっと銃口を下ろした。
お前なんかとっくに日陰者だ、と考えると哀れになったのだ。