24, March
ベッドの上で目を覚ました。
窓。
青い窓。
いや、あれは空だ。
体を起こすと視界に海が広がった。
頭が重い。
床に足を下ろそうとして自分が見慣れない服を着ていることに気づいた。痛いところはない。左の頬にガーゼがあてられていたが、大した傷じゃないだろう。気分は悪くない。おぼつかないだけだ。
ピントを合わせるように水平線をたどって見るが、どこにも島らしきものは見えない。
ここは、どこだろう。
その時、部屋に小さな足音が近づいていることに気づいた。弾んでいる。立ち止まったり、ジャンプしたり。楽しそうだ。元気だな、と思っていると、遅れて落ち着いた足音が近づいて来る。硬い底の靴を履いている。歩幅は広い方。ゆっくりと、ゆっくりと。小さな方のペースに乱されない。メトロノームのように正確なリズム。
ふたりの足音から察するに、廊下はだいぶ長い。
小さな足音の方が先に辿り着いた。硬い底の靴音が静かに追いつく。
「ここで待ってて」、男の声がした。
子どもが不満そうに何か云っているのだがそれは聞き取れない。
ドアが開いた。
不思議な色の目だ、と思った。
髪型や服装よりも、目の色に対して思った。
男はまるで僕が目覚める時間を知っていたみたいだった。
「起きたね。ルーイチ。今は3月24日の正午。体を調べさせてもらったよ。頬を少しかすっていた以外に目立った怪我はなかったけど、具合が悪いところがあったら云って」
男は僕へ紙切れのようなものを差し出した。器用そうな指だった。「ポケットに入っていたよ」。
航海証明書。
名前と顔写真、生年月日と血液型が書いてある。裏には出発地と行き先、航海の目的の記入欄。だけどその部分は滲んでいた。
「ルーイチ?僕のこと?」
そうみたいだね、と男が云う。
通じる、と思った。
「強運だったね。言葉が通じて」、僕の心情を察した男が笑ったように見える。
ドアの向こうでさっきの子どもがまだ何か喚いている。何か、は聞き取れない。呻いているようにも聞こえる。おかしな声だった。言葉を覚えられない動物みたいな。
「助けていただいてありがとうございました。手当てまでしていただいて。・・・あの、ここはどこなんですか。僕以外の船の乗組員はどうなったんでしょうか。僕、ここに来るまでの経緯がまったく思い出せないんです。手がかりがあればきっと思い出せると思うんですけど。例えば船の名前とか、乗組員の名前とか。遭難が確認されればニュースになっている筈です。あの、もし良ければ、」
「ちょっと待って」
そう云いながら男は部屋の外に出て行った。
子どもの声がぴたりと止んだ。
一言、二言告げているのが聞こえる。
男が戻って来て、「で、何だっけ」。
僕はさっきの質問をもう一度繰り返した。
「見つかったのはルーイチだけだよ。砂浜で死にかけていたらしい」
男はそう云いながらポケットから煙草を取りだした。差し出されるが断る。
「らしい?」
「うちの職員が発見した」
「あなたは医者?」
「それもある。ここのチーフだ」、煙を細く吐きながら云う。
「ここ、って、この島?それとも、この建物?」
ここが島だとは限らなかったが、否定はされなかった。
「どっちも」
ドアがノックされ、女の人がひとり入って来た。僕の方をちらりと見ただけでまたすぐトレイに目を落とす。慎重にベッド脇のテーブルまで運んでくれた。
「ありがとう」
彼女は僕の方をもう一度ちらりと見、ぺこんとおじぎをして去った。その耳元で何か光った。イヤリングだろうか。
「二日間何も食べていないからぺこぺこだと思うけど」
チーフが窓際に回りながら云う。
二日間。
今日は24日だから、22日から僕はここにいることになる。だが遭難したのはもっと前かも知れない。
遭難?
確かではないけれど、そう考えるのが妥当な状況ではある。
僕はここがどこなのかを訊ねるべきだったかも知れないが、言葉が通じるという安心感からかその質問を今する必然性を感じなかった。それに、ぺこぺこだったのは本当だ。
「何も思い出せない」、呟きながら、スプーンを手に取った。僕の様子を見ながらチーフが窓に腰を掛けた。ちょうど座りやすい高さにあるそれは、海側に出っ張っていたのだった。
「食べて良いよ」
そうは云われたものの、見つめられながらでは食べづらい。
僕はトレイを見下ろしながら固まってしまう。
「食べても死なないよ」
そういう意味じゃないんです。と謝ろうとすると、チーフはもう窓の外に目をやっていた。煙草を口に銜えたまま、一度だけ軽く手を振る。誰かいるのだろうか。さっきの子どもかも知れない。
その隙に僕はスープから手を着けた。
「おいしい」
思わず声に出す。
チーフは黙って窓の外を見下ろしていた。白衣の胸元を探したが名前を知る手がかりはない。僕は諦めて食べることに没頭した。
「ああ、あの莫迦。ったく」、僕がサラダに取りかかろうとしていると、いきなりチーフが舌打ちをする。
「どうかしたんですか」、僕の質問には答えず、煙を吐きながら立ち上がった。
「ごめん、また後で。食べ終わったら置いといて。さっきの彼女、すぐ片付けに来るから」
目も合わせず行ってしまった。
僕が食べ終わる時間が分かるのだろうか。目覚める時間が分かったみたいに。この部屋は監視されているのだろうか。僕は首を回してみる。カメラらしきものは見つからないが、わざわざ分かるように設置されていないだけなのかも知れない。
男の足音が遠ざかる。さっきより幾分早い。どっちが本当の彼だろう。
チーフ。
それしか分からなかった。僕は立ち上がってチーフが舌打ちした原因を確かめることもできたが、それはトレイの上に乗っている料理がなくなってからでも良いだろう、と思った。
その頃には砂浜しかないだろうことも、分かっていた。
僕はもう一度窓の方に目をやるが、ベッドの上にいると空しか見えない。夜は寝たまま星が見られるだろう。この部屋を設計した人は、それも知っていただろう。
窓にはカーテンがなかった。
僕はミニトマトを口の中で潰した。