2, April
チーフは朝から研究室を出て来ないので、僕とエコが港へ行くことになった。
ワゴンを運転するのは初めてだったが、エンジン操作とブレーキ操作さえ覚えれば誰にだって運転できそうなコース。
「そのイヤリング、何て石?」
風が助手席のエコの髪をなびかせ、耳朶で揺れる石を光らせる。
「気になる?」
「似たやつを前に見たから」
そうなの、とエコは少し笑っただけで教えてくれなかった。
港に着いたのは午前九時十分前で、連絡船の到着より少し早かった。昨日の嫌な男がまた来ないだろうか気がかりだったが、今日はチハヤもナナタもいない。大丈夫だろう。僕とエコには耳も尾もない。もしもチハヤを連れて帰ることができていたら、どうするつもりだったのだろう。正しい検査結果、と云っていたがチハヤはどこかおかしいのだろうか。そういえばこの前もチハヤはチーフに口の中を見せていた。薬。そう、必要な薬が足りていない。それが原因であることだけは間違いなかった。
「こわい顔」、エコが僕の頬をつねった。「考え事ね?」。
「ねえ、このトンネルってどこに繋がっているのかな」
海底への入り口を見つめる。
「本部ね」
「直通?」
「どうしてそんなこと訊くの」、エコが呆れたような顔をした。
「じゃあエコはどうして、そんなこと、って云えるの」
僕の言葉にエコは何も云ってこなかった。
間もなくゲートが開く。連絡船から出てきたのはいつもの荷物係だけだった。検品はエコに任せる。僕は船体を回り込み、トンネルの奥を覗いた。そこは真っ暗かと思っていたが、小さな灯りが天井と下を照らしている。幅の狭い歩道もあった。途中で停止した時の為だろうか。さらに足を踏み入れようとすると、後ろから肩を掴まれた。荷物係のひとりだった。僕はつとめて明るい声を出す。
「トンネルの中はどうなっているのかな、って」
「危険だ」
僕は、はっとした。
てっきり喋れないと思っていたからだ。
「だけど歩道があるってことは、空洞だよね。歩いてどのくらいかかるの」
「歩いてここまで来たことはないな」
「船だと?」
「向こうを八時四十五分に出る。ここが最初の停留所」
十五分もない距離。もっとも、船の時速は知らない。
「今日の仕事はこれで終わり?」
荷物係が不機嫌そうな表情。これは手応えがあるかも。
「もう一つの島に荷下ろししなけりゃならない」
その時、検品を終えたエコが僕を呼ぶ。
「何を話したの。ルーイチ」
「何味のキャンディが好きか、って」
僕を睨んでエコは溜め息を吐いた。
センターに戻ると真っ先に研究室へ向かった。チーフに教えなければ。あれはやはり地図だった。二つの島はトンネルで繋がっている。
「ああ、ルーイチ。やけに早いな」、確かめた腕時計をはめている、チーフの白衣が血で汚れていた。
「どうしたの」
台の上を見たがもう何もかも終わった後なのか、丸められたタオルが放られているだけだ。
「ちょっと吸わせて」、チーフが煙草を取りだしている間に僕は台の傍に移動した。足下のくず入れに汚れたガーゼが積もっている。
「チハヤを開いた」
「開いた?」
「解剖」
僕はくず入れの中身を袋に詰めながら聞き返した。「解剖?」。
チーフは煙草を銜えたまま白衣を脱ぐと、研究室の隅にある洗濯機に投げ込んだ。洗剤を注いで電源を入れる。
「ルーイチ。洗う物ない?」
「今来たのに」
すぐに洗濯機が回り始める。
僕は黙って台の上を拭いた。
どうしても体が震える。
「チハヤは暗号だらけだった」
「暗号って何」
「文通ならぬ猫通、ってね」
「何云ってんの。さっきから」
ルーイチ、とすぐ近くで声がする。僕は思わず飛び退いた。チーフの目を見ることができなくて、顔を背けた。どうして慣れてしまったのだろう。こんなに不思議な目の色に。どうして。
「あのさ、先に云っておくけど、チハヤ生きてるよ」
え、と口にする。
僕がチーフを怖がったのは、そこを誤解していたからなのだと気づかされ、幾分落ち着いた。「ごめん」。
「かなしいでしょ。ルーイチにまで避けられたら」
チーフが?
かなしい?
「笑うな」
「僕、荷物係と話をしたよ」
へえ、とチーフ。煙草の臭いと一緒に。
「やっぱりあの小さな円は島だったよ。それから、わざわざ船に乗り込まなくてもトンネルを進むことはできる。徒歩でも」
何が云いたい、とチーフが笑う。お互いに分かっていた。だけど確かめないと。すれ違わないように。言葉を使って。ちゃんと使って。
「莫迦だね」、僕の話を全部聞いたチーフがそう云った。だけど優しい声だった。
「チーフ、今日の夜にでも行ける?」
「明日生きて帰れるなら」
「保証はない」
「今朝早かったから、俺、寝ちゃうかも」
「眠らせない」
「刺激的」
洗濯機が一際大きな音を立てて停止する。チーフが驚いて振り返る。手の甲に落ちた灰に慌てふためく。
研究室には窓がない。
血でいっぱいのガーゼ。
僕は、泣きそうになった。
夕食はナナタも一緒にセンターの食堂でとった。いつものように振る舞っていたのだが、やはりどこか違うのだろうか、機嫌を取るように見上げてくる。もしもこんなDGだったら、僕も欲しいと思うかも知れない。
「好き嫌いはするな。愛されたいなら笑っていろ。すぐに泣くのも嫌われる」
云いながらナナタの皿にグリーンピースを一粒ずつ移していくチーフ。始めの一条は自分に云い聞かせた方が良い。
「・・・タータ」
いつもは上向いている薄い耳が今はしおれ、明るい色の巻き毛に埋もれている。
「海で泳ぐな。泳ぐなら溺れるな。溺れたら何としてでも泳げ」
「・・・ター?」
やっぱりナナタを誘うべきじゃなかった。
感度が良すぎるんだ。
きっとチーフが帰って来るまで眠ることもない。
「ナナタ。心配しないで。僕たちはすぐ戻るよ」
ナナタの目がまっすぐに僕を見る。食べ物が喉に詰まりそうになったが、何とか飲み下す。
「・・・ルー、イチ」
ほ、ん、と、う、に?
「うん、本当」
ナナタはチーフにも同じ答えを求める。
望んでいた答えを得られると、ようやく安心したのか皿の上に目を落とすが、すっかり多くなったグリーンピースにナナタは小さな悲鳴を上げた。