3, April
昨夜の連絡船が出て行くのと同時にトンネル内へ潜り込んだ。荷物は職員に任せておいたから問題ない。誰も僕たちがしていることを知らないはずだ。
僕たちは寝ずに歩いた。トンネルはどこまでもまっすぐ伸びていて、ときどきコンクリートの壁が震える。連絡船が傍を通過しているのだろう。船は一隻とは限らない。
歩きながら寝るかも、と云い出したチーフを前に立たせる。煙草は僕が預かる。
「一時間近く歩いた」、腕時計を灯りに晒してチーフが時刻を読み上げる。
「交わらないな」
僕がそう云った時、頭上を突風が吹き抜けた。とっさにしゃがんだが、轟音と共に連絡船が横切ったのは数十メートル先の地点だった。
「最初の交差点に辿り着くのに一時間。とすると、隣の島まで後約二時間。地図通りに偏りのない構造なら」
「しかも、島の入り口まで着いたにしても扉が開くのは朝だ」、僕が云った途端チーフの歩みが遅くなる。「急ぐ必
要ないな」。
ウチザキはふくよかな顎を揺らしながら笑った。
「歩いて来た、だって?あんたら根性がある」
僕はソファに座り直し、差し出されたカップを受け取る。
「よく私の暗号を解読したね。あんたかい」、ウチザキの巨体に気を取られていた僕は質問を聞き違えた。
「僕は、イヌイ・ルーイチ。で、こっちが」
ああ、と遮られる。「じゃあ、こっちの彼だね」。
「タバタです」、チーフが軽く手を挙げる。
ウチザキの話を聞いていると、トンネルが本部と島を繋いでいる事実が分かった。また、チーフが云っていたチハヤの暗号の意味も解けた。チハヤの体は文書のように扱われていたのだ。二つの島のチーフを繋ぐ交換日記のように。島の間は電気も郵便も通らないから、そういう方法になる。もっとも、島を出た「商品」は一度本部で検査されるわけだから外面に細工するわけにいかない。となると内面だ。それで解剖が必要だったのだ。
「懐かないわけだ」、体にかかる負担が大きすぎる。僕はチハヤの裸を思い出した。
「だけど、必要なことだった」、とチーフ。いつの間にか僕のポケットから煙草を取り返している。気づかなかった。
「俺たちが交換していたのは、技術だったから。いわば、再び退化するための」
「退化?」
僕が問い返すと、ウチザキがチーフの代わりに云う。
「もともと娯楽として始まった研究なんだよ。私たちの存在と生命維持自体が高級エンターテインメントだったというわけ。だけど今は本部の資金が別の方に流れていってる。薬や食糧が減らされているのはそのせいだね。削れるところから削っていく。商品は結構出荷したし、需要も落ち着く頃だろうと思ってた。本部の今の状態が長引けば島もろともなかったことにされる可能性だってある。いや、限りなくその方向に近づいていってる」
「本部で何が起こっているの」
「思いつくところで、戦争」、とチーフ。
「だけど重要じゃない。俺たちは目の前のレベルを問題にしている」
窓が風を受けて音を立てる。まったく似ていない。この部屋も。景色も。第一、この島のチーフはウチザキだ。僕の知っているチーフとは似ても似つかない。僕の勘は半分当たって半分外れていたことになる。
「それで、退化とは?」
同じ質問だよ、とチーフ。
「棄てられた者が排除されてなお生きていこうとする時、動物はこれまでどうしてきたか、って」
「変形」、と僕。
まだ見えない。
「そう。じゃあ、棄てられた者とは」
仰ぐチーフの吐いた煙が細く天井へ向かう。
僕は、あっ、と声を漏らした。
「そう。今や俺たちだというわけ」
「変形を退化と呼ぶのはどうして」
「私たちのしてきたことは進化の手助けだったからよ」、とウチザキ。
「猫の耳をくっつけたり、半身半魚を作ることが進化?」
だからジョークよ、とウチザキが笑う。「私たちの島で行われていることが本部では何て呼ばれているか知らないんだね」。
ええ、と答えながらチーフをちらりと見る。眠ったふりをしている。自分は知っているからだ。
「か、み、あ、そ、び」
ウチザキの唇それ自体が生き物のように見える。暗い海の底で、獲物を待っている。粘膜と牙。一度捕まってしまえば、逃げられない。
僕はナナタの唇を思い出す。珊瑚の色をした、小さな舌や突起。しかし弱いものほど淡く、掻き消されやすい。
僕は夢に逃げ込めない。
「・・・神遊び」
僕はカップに目を落とした。
「だからあ。ジョークなのよ。タバタ、何か云ってあげて」、とウチザキ。
「小さな円は大きな円の中にあるが、大きな円はさらに大きな円の中にある。小さすぎる場合と同様、大きすぎると俺たちは逆に認識できない。無限波紋のようなものだ」
チーフは今は僕を見ている。
ずっとおかしいと思っていたんだ。
その目は、人間のものじゃないね。
「チーフもジョーク?」
「そ、ジョーク」
「じゃあ僕も」
「そ。ルーイチは、DGだよ」
テラスに出て落日を眺める。やはり水平線は滑らかだ。夜が訪れるまで同じ姿勢で佇んでいると、足音がして僕の肩に上着を掛けて行く。
「・・・何これ」
「ウチザキ譲から借りた」
「置いて行くものは、これだけ?」、僕が笑うとチーフが戻ってくる。「俺で良いなら」。
僕はテラスのチェアに腰掛ける。ウチザキが座るには小さすぎる気がしたが、雰囲気を出す為の飾りかも知れない。僕やチーフにはできない芸当だ。
雰囲気って物の正体がいまだによく分からない。
「怒っている?ルーイチ」
「騙されているのは最初からだ。チハヤのことも、薬が減らされていることも、僕がDGであることも、僕のした図形の推理も。僕が思い出すことを期待するから小出しにしたんだよね。思い出せなくて、ごめん」
「空が赤いね」
その方角に、島があるだろう。
本当に、あの太陽が本当なら。
「僕も、そうじゃないかな、とは思った。やけに耳が聞こえたり、臭いを感じたり。今日この島まで暗いトンネルを歩いて来て、思い出したよ。僕は、前にひとりであのトンネルを行ったことがある、って。推理が的中したのは、僕がまったく忘れたわけじゃなかったからだ。普通は、あんな落書きを何かの地図だとは思わない」
肩に掛けられた上着を胸の前で合わせる。体がすっぽり収まった。「薬が減らされ始めたのは、ここ数ヶ月の出来事じゃないんだね」。
「ああ。ルーイチは、ひとりで薬を取りに行ったんだ」
本部へ。
「そうしたら、綺麗な体になって、頭の中まで綺麗になって戻って来た」
「退化?」、僕が尋ねると、チーフが頷く。
「本部の中に、味方がいるってこと。誰かが、生きろ、って云ってる」
「偽善かも」
「善事には変わりない」
「妄想みたいな仮定だ」
「そう、希望的観測」
本部から、名前も知らない誰かが退化の暗号をくれた。この体の奥に。
チーフが肩越しに僕を見る。
僕にはその顔が歪んで見えた。髪が風に揺れている。時折、僕の目とチーフの目が見つめ合うのを遮る。
とても長い。
本当は長くない。
息をしていない。
だけど苦しくない。
僕が云わなければ、チーフが云うだろう。
分かっている。
揃っている。
声に出すだけ。
言葉をちゃんと使って。
「良いよ。チーフ。僕を、開いて」
海に溺れて死んでいく者の気持ちが、今分かった。
ずっと、満たされたかったんだ。