25, March

朝から海の方を見ていたが、まだ一隻も船が通らない。昨日と同じ彼女が朝食を運んで来てくれた。話しかけてみたが、彼女は僕の方をちらりと見て、おじぎをするだけだった。
「全然船が通らないね」
「そのイヤリング、何て石?きれいだね」
「チーフに会える?」
最後の質問に限って、彼女はこくこくと二度頷いた。それから嬉しそうに笑った。耳元のイヤリングがまた光った。あれは、何て石だろう。

今日は部屋の外へ出てみるつもり。建物内も見ておきたかったし、島の反対側も気になる。そちら側に港があるかも知れない。それより、ニュースを確認したい。外の情報に触れたかった。自分について覚えていることが名前だけ、なんて状態から早く脱出したい。
その時、窓の外から声がした。
ここへ来てから聴覚が研ぎ澄まされた気がする。
昨日チーフが座っていた場所に膝を乗せて見下ろすと、やはりそこには砂浜があった。だが想像よりもはるかに狭く、ところどころ岩がごつごつしている。子どもが遊ぶにしては危険に思われた。ちょうど岩の陰に何かが隠れる気配がした。

「・・・猫?」

もう少し身を乗り出そうとした時、後ろから声を掛けられる。
「おはよう、ルーイチ。遊びたいの?」
僕は慌ててそこから下りた。
チーフは眼鏡を外し、ポケットから煙草を取り出す。
「何か思いだした?」
僕は首を横に振る。
「体はもう大丈夫?」
「ええ」
僕はそれきり黙り、チーフは煙草に火を点けた。そろそろ切り出そうか、と思っていると先を越された。「外に出てみたい?」。

建物はL字型の構造だった。僕のいた部屋は南向きの端にあったようで、長い廊下を進んでいく間に同じようなドアが幾つかあった。しかしネームプレートも何もなかったので中の様子も、人がいるのかどうかも分からなかった。
東向きの建物との繋ぎ目は渡り廊下になっており、広い窓からは小高い山が見えた。その向こうに海。建物に囲まれた西側は中庭になっており、中央に噴水、手前には遊具があった。
建物が五階建てであることを知る。僕たちが歩いているのは最上階だ。
「あれ、今来た棟には階段がなかった」
「階段は東棟にしかないんだ」、チーフが云う。
「でも、それだと不便なんじゃ。一階に降りたい、と思ったらこっちまで来ないといけない」
ああ本当だ、と今気づいたみたいにチーフが云う。

一階は人もたくさんいるだろう、と思っていたがそうでもなかった。待合室はがら空きだったし、さすがに受付には人がいたが暇そうに見える。
テレビが一台あったが画面は暗かった。
「食べ物とかはどこへ買いに行くんですか」
「とか、って?」
「食べ物とか、日用品とか、衣類」
「連絡船が来るよ」
建物を出たところから芝生が敷き詰められていた。そこにもやはり人はいなかった。
「海底を通ってね」
僕が立ち止まると、チーフは初めて歩みを止めて振り返った。「どうしたの?ルーイチ」。
「船が、海底を?」

島の反対側まで車で一時間もかからなかった。道路は海沿いの一本で、すれ違う車もほとんどなかった。僕は島の中央に目を凝らしていたが、どこも小高い山に阻まれて、市街地のようなものを見つけることはできなかった。
「何だか病院だけの島みたい」
「そんなとこ。正確には研究センターだけど」
それなら少しは納得がいく。
しかし、連絡船はどうしてわざわざ海底を通って来る必要があるのだろうか。

トンネルの入り口を見せてもらったがゲートしか見えなかった。
「一日何往復?」
「三。朝、昼、夜」
「チーフもそれに乗って来る?」
俺はここに住んでる、と吸い殻を靴底で踏みつぶしながら答える。
「研究って、何の?」
「動物」
それから再び車に戻り、島の西側を半周しながら帰った。思っていたよりずっと小さな島だったので、僕は驚いた。僕がいた建物以外の建物といったら、やはり白い直方体の建物を三軒見たくらいで、他はほとんど木々だった。

すぐにでも知っている場所へ帰れたら良いが記憶が戻らない。
これじゃあ明日には退屈になる、と思って僕は肩を落とした。

夜、僕は今日見た島の上空図と建物の内部を絵にした。ペンと紙はチーフに貰った。紙はもともと注文票のようだったが、インクが掠れて読み取れない。僕はそれをテーブルの上に置くと、ベッドの上に仰向けになった。十分睡眠をとっているはずなのに、このベッドに横になるとすぐに眠気が襲ってくる。

海底トンネル。
連絡船。
研究センター。
それから、
「猫?」

まどろみの途中で、日記を付けよう、と思った。