26, March
午前中、待合室に四人ほどかたまっていた。ダークグレーのスーツを着ている男が三人。マーメイドドレスの女性が一人。その陰に隠れて最初は見えなかったが、ワンピースを着た女の子もいた。大人たちは何やら真剣に話し込んでいる様子。
僕は一通り待合室を見回してみるがチーフの姿は見えない。
建物を出て左に行く。そこには昨日見た中庭がある。噴水の水は出ていたが子どもの姿はない。縁に腰を下ろして建物を見上げる。
病院ではなく研究センターだった。
南棟の五階は、僕の部屋と同じようなつくりの部屋が並んでいる。それから東棟に目をやる。
「妙だな」
チーフは、南棟に階段はないと云った。渡り廊下は二つの棟の五階同士を繋いでいるだけ。
「不便すぎる」
南棟内のフロアの行き来はどうしているのだろう。
しかしすぐに、チーフが適当な返事をしたんだろう、というところに落ち着いた。
それにしても陽当たりの悪い中庭だ。東側と南側を建物で邪魔されている。
本当にでたらめだ。
僕はすぐ飽きて砂浜へ行くことにした。
白い砂浜に立って波の音を聴いていると、自分には帰る場所がない気がした。それは悲観的な感情じゃなく、安心感に近い。この場所にずっと前にも立った気がするし、このまま何も思い出せないことがあっても自分は平気でいられる気がした。
視界は冴えている。
水平線をゆっくりと目でなぞるが、相変わらず船は通らないし、島もない。ポケットに手を入れ、航海証明書を取り出す。
僕の名前。
ルーイチ。
イヌイ・ルーイチ。
写真の僕は緊張した面持ちだ。
深呼吸をして振り返ると、何かが岩場に隠れる気配があった。すばしっこい影だ。僕はすぐに、昨日見た猫だと気づいた。正確には、猫のような、生き物。人間の子どもかも知れない。
僕が近づいていくと、影は別の岩場の後ろへ隠れた。今度は見逃さない。白いシャツの裾が翻ったのも見えた。
「かくれんぼ?」
岩場は島の西側まで続いていた。遠くには浸食されて切り立った崖も見える。
影の後を追って太陽とは反対側へ歩いて行く。
もう近づいただろう、と思った時、思いがけず背後から抱きつかれた。
二本とも子どもの腕だ。
二本とも子どもの腕だ、だって。
自分の感想に苦笑する。
「ああ吃驚した」、そんなふうに触られたのはずっと前のことに思われたから。
腕の力が緩んで、子どもが顔を覗いてきた。
ああ、またあの目だ。
また、と云うのは、チーフの目と似ていたからだ。
不思議な色だ。
同じ生き物とは思えない。
「君、誰?」
すごく近い距離で甘える。ずっと退屈だったのだろう。チーフの子どもだろうか?
「ああ、分かった。君の足音を思い出したよ」
初めて聞いた足音。
廊下を歩いて来た。
親しげに僕を見上げてくる。何か云いたそうにしているが、分からない。
その時気づいたのだが、子どもは半袖シャツ以外に何も着ていなかった。丈が長い裾は膝まで隠している。さらに気づいたのだが、本物のような尾が垂れていた。小麦色の巻き毛に埋もれていて見えなかったのだが、猫のような耳もある。
「すごいね、これ。本物みたいだけど。今日はお祭り?」
僕が耳を引っ張ろうとすると子どもは笑った。
「名前は?ここに住んでいるの?いくつ?僕のことが怖くないの?」
何を訊いても答えない。
顔を寄せて、ルーイチ、と発した。
その音を聞いて、僕はこの子どもが喋れないのだと分かった。
センターに戻った時、待合室の椅子にはもう誰も座っていなかった。受付にチーフの後ろ姿。頭を抱えている。僕が朝食も摂らずに抜け出したせいかも。
受付の係と目が合う。
同時にチーフが振り返った。「ルーイチ、勝手に抜け出されちゃ困、」、云いかけた口が半開きのまま停止する。
ここまでずっと僕の手を離さない子どもを見ている。
子どもが、タータ、と発した。
そう聞こえた。
「タータ?チーフのこと?」
チーフは歩み寄って来ると、僕たちふたりを交互に見比べ盛大な溜め息を吐いた。
「タバタ。そ、俺のことね」
握っていた手が僕の手からするりと抜け、がっかりするほど簡単にチーフの白衣にしがみつく。
「ナナタ、また約束を破ったな。・・・悪かった、ルーイチ」
一瞬、何を謝られたのか分からなかった。迷惑を掛けて、という意味だろうか。
「いえ」
「こいつ、砂浜にいた?」
「はい」
チーフはナナタの巻き毛の中に指を入れて軽く鼻先を寄せた。海と太陽の臭いがすることだろう。僕の見ている前で、叱ることを躊躇っているようにも見える。
「何かおかしいか?」
僕が、え、と問い返すと、「顔が笑ってる」。
午後はチーフの運転する車で港まで行く。昨日はセダンだったが今日はワゴンだった。助手席に僕、後部座席にナナタが座った。車が走り出すとナナタは急におとなしくなり、窓の外の流れる景色をじっと見ていた。
「早いな」
腕時計に目をやりチーフが独り言のように呟く。車の時計は狂っているようだ。
「船が来る時間より?」
僕の質問にチーフは生返事をしながら窓を開けた。ハンドルを片手に握り直し、速度を落とすと煙草を取り出した。僕が見ているのに気づくと、ライターを渡してきた。「お願いね」。
点火する瞬間、チーフの顔が近づく。目の色は同じだった。いや、少し淡くなった。光のせいだろうか。
荷物を検品しているチーフの後ろで、ナナタが一番小さな箱の傍にしゃがみ込み開けようとしている。僕が止めようとすると、「そっちはもう良いから」、とチーフに云われた。
よく見えるな。
背中なのに。
「ル、イチ、」
ナナタはテープに苦戦していた。
「散らかりそうだから車で開けようか」、箱は軽かった。
中はキャンディやチョコレイトでぎっしりだった。
車を出ると、チーフと荷物係が争っているような声が聞こえた。何か足りなかったのだろうか。云い合いは長引かなかったが帰りの車内でチーフは始終、不機嫌だった。
夜、僕はノートを作った。不用の紙を束ねて糸を通しただけの簡単なものだが、ここで見た物や気づいたことを書き留めておく。今日の内容はナナタに関する事がほとんどだった。書き終えて表紙を閉じた時、ずいぶん厚く作ったな、と思った。