28, March
良く寝た。どんなに考え事をしていても僕は良く眠れる。眠りが体を解放してくれる瞬間を知っている。
ゆうべは車で送ってもらった距離を今朝は歩いてチーフの家まで行った。
体を動かしたかった。そうして自分の足がちゃんと云いなりであるか、目や手も自分に忠実であるか、確かめたかった。
チーフ宅に着く頃には良い具合に脈拍が上がっていた。目も覚めた。
結局、何も思い出せなかった。しかしもどかしさはない。受け容れる体勢になっている。まっさらな、子どもみたいに。
「食べないの?」
テーブルには僕ひとり分の朝食が並んでいる。今朝も豪華だ。新鮮なフルーツもある。もぎたてみたいだ。この近くに果物の樹でもあるのだろうか。散策してみよう。
「朝はいつも食べない」
食欲はなくても煙草だけは手放せないらしい。見るとデスクの上のパソコンが付けっぱなしになっていた。寝ていないのかも知れない。
「やっぱり駄目だったよ」
何も思い出せなかった。
「もう少し、色々な場所を見たら思い出せると思う」
確信はなかったが、可能性は十分にある。
「・・・あのさ、寝てる?チーフ」
煙草を口に銜えたままで、寝てる、と返事があった。僕はチーフと会話することを諦めて黙々と食べた。
ポタージュ。
きのこが入っている。
キッチンを振り返ると、まだ湯気の立っている鍋と使いっぱなしの調理器具。僕はもう一度チーフを見た。眼鏡がずり落ちそうになっている。みっともない。
朝はいつも食べない。
そう、云った。
「・・・ごめん」
僕は僕のために作られたポタージュを丁寧にすくった。
センターの地下には野菜畑が広がっていた。キャベツ、じゃがいも、トマト、人参、茄子、玉ねぎ、等数十種類もの野菜がここだけで栽培されている。僕がセンターで食べていた料理もここの野菜を材料に作られていたのだろう。それぞれの野菜には責任者がいて、温室の入り口にネームが掛けられている。僕は一枚ずつ時間をかけて読んでいたが、意味がなさそうだったので途中で止めた。
「果物もある?」
「ここにはないな」
畝の間を歩くチーフの後を追う。高そうな靴が汚れるのも構わない様子。意外とそういうところは無頓着だ。
「おはよう」、作業中の人間にチーフが声を掛ける。彼は顔を上げておじぎをした。続けて僕にもおじぎをした。
目が異様に大きかった。
「喋らないね、ここの人」、声が届かないところで口にする。
「喋れないんだ」
ここでチーフは僕を振り返った。「で、どう?」。
「どう、って」
「ご感想」
「うーん、どうして地下に作る必要が」
「気象に左右されない」
「それだけ?」
疑い深くなった、と笑われる。
「じゃあ、次行く?」
僕の返事も待たずチーフはもう地階へ向かっていた。
センター南棟の一階が僕たちの研究所らしかった。
「五階だけが個室になってる」
ここにも本はほとんどない。コンピュータが三台あったが、その中に必要な文献や資料、ほとんどの研究データが入っているのだと云う。器具のずらりと並んだ棚、薬品、ステンレスの台。窓はなかった。波の音も聞こえない。
「四階まで同じ?」
「違う」、と首を振ってチーフが傍らの回転椅子に腰を下ろす。また煙草だろうか、と思っていたが違うようだ。
「面倒だ」
僕は、え、と問い返す。
「この先、質問責めにされる予感がする。ルーイチの、その、何も思い出せない顔を見ていたら」
質問責めにしなければならないような話ってことだろうか。
チーフは一息吐くと背もたれを利用して仰け反った。椅子が撓った。
「ナナタを見てどう思った?」
ここで思いがけない名前が出てきて返答に詰まった。
「見たよね。耳も尾も」
装飾か何かだと思っていた。僕は確か、祭りがどうのとか訊いたんじゃなかっただろうか。それがどうしたのだろう。
「あれは、生えているんだ。取り外せないよ」
僕は再び、え、と問い返す。
「最初に訊いておきたい。ルーイチ。棄てられた者が排除されてなお生きていこうとする時、動物はこれまでどうしてきたか」
チーフは仰け反った姿勢のまま。
喉仏が突出した骨のように見える。
光のせい。
表情は見えない。
無理に押し出された声はいつもと違う。
本当に面倒臭がっているだけのようにも取れる。
「棄てられたと云うのは、社会的に?」
「全部含めて」
「絶える」
チーフが苦しそうに笑う、「問題文を勝手に変えないで。生きていこうとする時、だよ」。
「媚びる」
「他には」
「変形。別の物にならないと」
「そう。じゃあ、棄てられた者とは」
「落ちこぼれ?勉強ができないとか、仕事をしないとか」
「まあ、その場合もある」
よいしょ、と頭を元の位置に戻してチーフが僕を見る。あの目の色で。それは僕をとらえて離さない。
「だけどここでは言葉通り棄てられた者、廃棄された者を材料にして、誰かにとって必要とされる形に作り直してやるんだ。ただしそれは、成人じゃない。小児でも手遅れ」
「まさか、」
「傾向として下降してはいるものの、中絶件数は他国に比べると依然上位だ。一昔前、家庭ロボットが流行った。最たる理由は、家事や育児を任せたいからでもセキュリティを任せたいからでもない。購入者の半数以上が一人暮らし。しかもロボット開発側は発売当初から二足歩行にこだわっていたね。あるいは犬や猫の形だったり。呼べば反応をすること。朝と夜には挨拶をすること。所有者を名前で呼ぶこと」
僕はどんな顔をしていたのだろうか。チーフは困ったように笑った。
「生命に似せようとしてきた。呪縛だ。その欲求からは逃げられない。ルーイチもだよ」
耳鳴りがする。貝を押しつけたみたい。波の音だ。
「胎児を廃棄物だと?」
「トイレに棄てられたならね」
僕は少しずつ息をした。耳鳴りが遠ざかる。冷静になれないのは、話の内容じゃない。きっと、そうじゃない。チーフの目だ。あの目が悪い。
「そんな物、誰が買う。買ったって隠し続けなきゃならない」
「ルーイチ、手品好き?」
「え?」
「イカサマが、好き?」
僕が答えないでいると、俺はまあまあ、とチーフ。
「サーカス、劇場、手品ショウ。箱の中でなら大量虐殺さえエンターテインメント。ルーイチは、スクリーンの中で殺された人が本当は生きているって知っている。あらかじめ虚構を宣言してある場所で起こった出来事だから平気。それは現実じゃない、虚構なんだ、っていちいち云われなくても分かっている。観客は本当はリアルを求めているんだけど、これはまた別の話。だけど、個人の目的で買われていくこともある。交流会も開かれているぐらいだ。車好きが集まるみたいにね」
「ビジネスで先天性をいじるわけだ」
「そうだね。持病を治す医者のように」
「まったく違う」
「そういう価値観なら、そうだね」
他に質問は、とチーフの澄ました顔。僕が黙っているとチーフは続けた。
「小麦粉を売る人はその小麦粉がパンにならないからと云って売るのを拒む?妊婦は胎児が人殺しになるかもと思って産むのを拒む?可能性ならどの方面にもいくらでもある。だけどもっと希望的観測で生きている。人間なら、それができるから」
チーフは立ち上がると、喋りすぎて疲れたよ、と零した。
それから奥のエレベータに僕を案内する。上階に何があるかを僕はもう勘付いていた。
希望的観測。
そんな言葉は、どこにも似つかわしくなかった。