31, March

今日も朝からチーフの家へ行ったが、そこに見事な朝食が準備されているだろうことはドアを開ける前から分かった。聴覚だけでなく嗅覚も敏感になってきたようだ。
「いただきます」、云いながらドアを開ける。
思いがけずチーフの強い口調が聞こえてきて僕は玄関で立ち止まった。
「ああ、はい。足りないんですが。・・・いえ、三十本ほど。私の話、聞いていました?・・・そう、CTだけじゃない。BDの分も全く足りない・・・ええ、担当の方に再三云っておいた筈なんですけど。・・・はい?それに関しては五日前に云いましたけど」
五日前。
僕とナナタが港へ付いて行った日だ。あの日、チーフと荷物係は何か云い争っている様子だった。
何があったのだろう。
僕は存在を消そうとするかのように身を縮めていた。しばらくすると受話器を置く音がして、チーフが僕を呼ぶ声がする。「どうぞいらっしゃいませ」。
「何かトラブル?」
「電話の音で起こされるのが嫌なんだ」
「ああ、僕も」
だけど明らかに意味は違う。
何か別の話題を探さなければ、と思っているとチーフがキッチンへ行き食事の支度をしてくれる。
「あ、僕がするよ」
僕が食べるんだし、と云おうとして口を噤んだ。あまりにも図々しい。
「今朝は俺も食べる」、チーフが開けた鍋の中には、トマトとビーンズのスープが温まっていた。

研究所に着くと南棟の二階から四階を見回ることから始めた。夜番の職員に挨拶をする。やはり彼らも喋らない。チーフに云わせると、喋れない、らしいのだが。
しばらくすると朝番の職員が到着し、夜番と入れ替わる。
体温測定。数値を記録。身体検査。体重と体長。数値を記録。水槽の掃除は週に一度。午後はCTとDGの日光浴も行うそうだ。BDはまだ外へ出す時期ではないらしい。
朝食の準備を終えた僕をチーフが笑う。「別人みたい。自分のことは何一つできないくせに」。
「黙ってよ」
そのチーフはというと遊んでばかりいる。
「僕、上に行くけど」
DGの中でも特に元気の良い子とじゃれていたチーフは返事もしない。聞こえてはいただろうからそのまま先に行く。
四階の入り口を押し開けて中に入る。
黒い目のBDに餌を与えて、ケージの掃除を始める。
BDは他にいなかったから落ち着いて作業ができた。下からDGやCTの声や走り回る音が聞こえる。
「結構うるさいな」
そう云いながら、自分の聴覚が良くなったせいかも知れない、と思う。
やがて掃除を終える頃にはたった一羽のBDも満腹になったようだった。
「強くなれよ。あいつらに負けないように」
しかし撫でた体はまだ頼りなかった。羽と骨の繋ぎ目を見る。そこに元から生えていたようだ。
羽のない僕の方が不自然なのかも知れない。
黒い目が僕の手の動きに従って閉じたり開いたりする。
「大きくなれよ」、勝手なことを、云う。
その時、奥から物音がした。僕はBDをケージの中へ戻し鍵を閉め、そちらへ向かう。
見るとチハヤが裸のまま立っていた。僕は着ていた白衣を脱いでその肩に掛ける。
「おはよう、チハヤ」
夜番がケージの鍵を閉め忘れたのだろうか。後で注意しないと。ケージを覗いて見ると、中はすっかり片づいていた。自分で片づけたのだろうか。
チハヤは僕の後ろを見る。それから僕を見上げる。
「チーフなら三階」
チーフ、という言葉にチハヤの耳が反応を示す。
「会いに行く?」
チハヤは僕の質問に答えず部屋を出て行こうとする。
「日光浴はまだだよ」
そうじゃないだろうことは何となく分かっていたが、他に言葉が見つからなかった。チハヤは裸足で階段を下りていく。僕はその後を追いかけた。

チーフはチハヤの姿を見ると驚いた顔をした。
「ひさしぶりに出たね」
チハヤはチーフの前に立つと口を大きく開けた。舌を見せているようにも見える。チーフは分かっていたようにペンライトを取り出して咽の奥を照らした。
「ああ、もうちょっと待ってな。苦しいよな」
一見しただけで分かったのだろうか。ペンライトを仕舞った。
僕を見て云う、「支給される薬が減らされているんだよ、今朝の電話、聞いていただろう」。

日光浴の場所は日によって違うらしい。今日はセンター東棟の屋上。芝生が敷き詰められてあり、そのまま横になることができる。屋上に連れ出されたのはDGとCT。チハヤとナナタも混じっている。
とても平和な光景だった。
緑色のベンチに腰掛けながら、チーフが煙草を取り出す。
「やっぱりCT同士だから気が合うのかな」
僕の目線の先を辿ったチーフが首を傾げる。
「関係ないと思う。それに、ナナタはDGだぜ」
「そうなの?」
「CTだと云われればCTに見えないこともないか。なるほど」
僕は改めてナナタとチハヤを見比べる。
ナナタがポケットから取りだしたキャンディを並べてチハヤに選ばせている。チハヤはあまり興味を示していない。
「薬が減らされてるって?」
「ああ。いつか来ると思ってた。野菜畑を地下に作ってる本当の理由もそれ」
「どういうこと」
「食糧も減らされてくるかも知れない。この島、埋め立てなんだ。地図にない。ある日沈んでも誰も気づかない。沈めた本人以外には」
「どんな理由」
「さあ。理由なんか」
僕は海側に目を向ける。青い水平線は見渡す限り滑らかで、他に島嶼が見あたらない。
「俺も最初はそうやって水平線をなぞってた。そうしている内に、無駄だって気づいてやめた。あの海も空も人工かも知れない、って。貝殻のない砂浜、雲一つない空、一年中枯れない木、緑」
「チーフは、いつからここにいるの」
さあ、という返事。
また適当だ、と思ったけれど、チーフにも本当に分からないのかも知れない。
「ずっと前から、かな」

気づくといつの間にかナナタが傍にいて、僕たちにキャンディを差し出していた。少し離れたところからチハヤが様子を窺っている。
「・・・ル、イチ」
ナナタは僕たちの顔を見比べて心配そうにしている。 本当に敏感な子だ。
「じゃあ、青で」
先に僕が選ぶ。ナナタの顔に笑みが広がる。
「タータ、」
え、ら、ん、で。
口の中にじんわりと甘い味が広がる。最後に食べたのは、いつだったか。いやそもそも、最初、なんてあった?
「・・・タ?」
チーフが無言でいることに焦ったナナタは別のポケットからキャンディを追加する。気に入ってもらえないことを何より怖がる。小さな手に乗り切らないからぼろぼろとこぼれ落ちた。無関心を装っていたチーフが、ふ、と笑い、慌てて屈もうとするナナタの両腋に手を入れる。
「じゃあ、ナナタで」
チーフの膝の上でナナタが尾を振る。
「・・・ああ、ハイハイ」、僕はベンチから立ち上がると佇むチハヤに声を掛けた。「みんなと遊ばないの?」。
チハヤは突然僕の手を握ると、何か云いたげに見上げてきた。耳や尾と同じで黒い目だ。
「触発されたか?」、ベンチでじゃれ合うチーフとナナタを見やりながら、僕はチハヤが導こうとする方へ素直に付いて行った。チハヤは誰にも邪魔されない場所まで来ると、芝生の上に何か描き始めた。土があればもっと良かったんだろうが、あいにく全面芝生だった。
「何」
中央に大きな円が一つ。その下に三十度の角度で小さな円が二つ。大きな円と小さな円は直線で結ばれ、二本の直線の中心がそれぞれ結ばれた。分子構造みたいだ。
「これ、何」
チハヤは小さな円の一つを指差し、大きな円との間を指先で往復させた。
「遊び?」
それから、直線の中心を結んでできた弧もぐるぐるとなぞる。
「分からないよ」
チハヤは一途に何かを説明しているように見えたが、僕が理解しない様子を見ると臍を曲げてしまった。

その日の夜、僕はチーフの家に泊めさせてもらうことにした。どうせ明日の朝食もお世話になる。
僕はチハヤの描いた図を紙の上に再現して観察したが、やはり分子構造にしか見えなかった。念のためチーフにも見せると、「何それ。さくらんぼ?」との答えだったので、この話はそれ以上進展しなかった。