1, April
エコと会ったのは初めてだった。ナナタに届けてもらった野菜の代金を支払いに行った受付に座っていた。僕はエコの耳元に注目した。それは、僕がセンター南棟の五階で寝食していた時に食事を運んでくれた彼女と、同じイヤリングだった。
それより僕が驚いたのは、エコが喋れたことだ。それも、僕らと同じくらい。
「そんなに珍しい?」、エコが笑うとカラフルな歯列矯正具が見えた。僕はその笑顔につられた。
「ここ、喋れる人あんまりいないみたいだから」
紙幣を差し出す。紙幣、と云うより引換証のようなもの。
「遅いのね」
「あ、ごめん」
手が触れる。
「あ、ごめん」
くすくす笑う。
「ルーイチしばらく見ないから、もう連れて行かれたのかと思ったわ」
「連れて行かれた?どこへ?」
「海の向こうへ」
交替時間を待って砂浜へ行った。エコの背丈は僕とほとんど変わらない。
昨日チーフが云ったように、貝殻一つない砂浜、雲一つない空だった。今日も水平線は滑らかで、広い海にたった一枚浮かぶ木の葉を連想する。だけど流れていかない。留まる。僕たちは留まっている。
「エコはずっとここにいた?」
「さあ。そうかも」、なんて、チーフと同じようなことを云う。
「僕をどのくらい見なかった?」
「七日くらい」
「僕は船で出て行った?」
エコが不思議そうな顔をするので、ポケットから航海証明書を取りだして見せた。いつも持ち歩いている。もう忘れたくないから。
「これは、何」
「航海証明書。この島のどこで発行しているか教えてもらえないかな」
エコはその紙の裏表を注意深く見た後、僕に返してきた。
「騙されたのよ」
え、と問い返す。
「こんなもの、発行しない。ルーイチ、チーフに騙されたのよ」
研究室にいなかったので受付に尋ねた。チーフは港へ行っているらしい。僕はセンターの車を借りて港へ向かった。
ゲートが先に見える。近づくに従い、例のワゴンとチーフの姿が目に入った。いち早くこちらに気づいたナナタが寄って来る。セダンの隣に駐車して降りる頃には、もう運転席側のドアの前で待っていた。
「・・・ルー、」
「ごめん、後で」、ナナタを押し退けてチーフに近づく。
その隣にはチハヤがいた。
見知らぬ男がチハヤの喉を覗いている。
「あれ、何?誰?」
ナナタが答える筈がない。
「薬が減らされているせいです」、チーフが云うのが聞こえる。チハヤを診ていた男が何か云っているが低くて聞き取れない。
僕は耳を澄ませた。
男の後ろから、いつもの荷物係がダンボールを抱えて降りてくる。
「いいがかりは困ります。田羽多くん。同じ重量を毎日こうして届けているじゃないですか」
「砂糖を混ぜて?その他に、食糧も減らされています」
「ですから、田羽多く、」
「あなた方ならもっと綺麗に騙せたのではありませんか」
ナナタが僕の腰に細い両腕を回す。僕は冷たくなった自分の指をその柔らかな髪にゆっくりと埋めた。
「君のミスではないのですか」、吐き捨てるように云い、男はチハヤの頭に手を置いた。
「ひとまず、この子は本部へ連れて行きます。こちらで正しい検査結果を出してお渡ししますよ」
自分が連れられて行くことを拒むみたいに、ナナタが僕の後ろに隠れる。
「その必要はない」
チーフに肘を引っ張られてチハヤはこっちまで飛んできた。飛び出したナナタが僕の後ろまで引きずって来る。
男が初めて僕たちに目を向けた。
「まあ、今日じゃなくても良いでしょう。その内、本部に指令書を出してもらって持って来ます。そうなったら、必ず連れて行きます」
男は振り返り、全部の荷物が船から降ろされたのを確認すると、踵を返した。
「お忘れのないように。この島のライフラインが、一本しかないことを。それではごきげんよう、田羽多チーフ」
男の姿が船の中に消えても、チーフは動かなかった。ゲートが完全に閉まってからようやく首を鳴らすと、僕を振り返る。「急用?」。
僕は首を横に振る。
歩み寄って来たチーフが、僕の後ろからそろそろ出て来たナナタの頭を何度も撫でる。
「えらいひと怒らせちゃった。もうお菓子くれないかも。ごめんな」
今日は夕食もセンターで取った。チハヤとナナタは南棟に帰っている。もう眠ったかも知れない。
僕はチーフと向かい合って座り、トレイの横に紙を広げた。
チハヤが屋上の芝生に描いた図を再現したものだ。
「僕なりに色々考えてみたんだけど、これ、地図じゃないかな」
煙草を吸っていたチーフが眠そうに、続けて、と目配せする。
「円は島。直線はトンネル。僕たちがいるのは、二つの小さな円の一つ。中央の大きな円が、本部。チハヤは一度この島の外へ出て、どういう理由かは分からないけど、とにかくまたこのトンネルを通って戻って来た。返品された、ってこと。かな」
云いながら、チハヤがしていたように指を往復させる。
「しかも、チハヤは二本の直線の中心を結んで弧を作った。これは、二本のトンネルが繋がっていることを表すんじゃないかな。僕たちは、本部を通過することなく島を行き来できる。まあ、簡単にはいかないと思うけど」
煙草の灰を落としながらチーフが口を開く。「もう一つの島って、ここみたいな?」。
「そうじゃないかな、と思う」
「思う?」
「勘」
「勘?」
ようやくチーフが笑ってくれた。「どうしてこんな島が二つも?」。
「比較実験、かな。僕たち、並べられたシャーレの中にいるのかも。大きな目が観察している。その目は本部にあるかも知れないし、また違うところかも知れない」
「すごいな」
「何が」
「ルーイチのその、妄想のような仮定」
「成長した?」
こんな時、ナナタならもっと簡単にチーフを笑わせることができただろう。
「進化に等しい」
窓の外は真っ暗で、食堂の光景が硝子に反射している。
「だけどもしもその話が本当なら、俺のような人間がもうひとりいることになる」、短くなった煙草を灰皿に落とし、伸び上がりながらチーフが椅子を立つ。
「こっちの俺が消えても、大丈夫かな」
それじゃ比較の意味がない。
という台詞は飲み込んだ。その代わり僕はチーフを呼び止める。
「それって、今云わなきゃいけないこと?夜は長いけど」
「チーフ。あの航海証明書って、嘘だった?」
二度目のあくびの後で、そうだね、とチーフ。
「チーフが、作った?」
「ルーイチが、これを持っていると人間になったみたいだ、って云うから」
砂浜まで下りず、センター東棟の壁に背を預けて海を眺める。
毎日、毎日、何があるって云うんだろう。
僕たちは、飽きもせず。
「僕を、騙した?」
さっきの続き。
チーフが情けない声を出す、「訂正して。夢を見せてあげたんだ。俺をわるものにしないで。もう分かってるから」。
透明なシャーレの底で、僕たちは喋る。物を食べたり吐いたりする。僕は、僕が何という生き物であっても、この海の上で生きる。チーフも、そう思ってくれるだろうか。