メトロポリス33で排出される水を下流で濾水センターへ流し込む役割を果たす太いパイプの横に、もう一本予備のパイプが通っており、33Hへはそこから入れるものらしかった。
33H、異名をヘヴン。
耳にすることはしばしばあるが、ラビは、実際に行ったこともなければ、行ったことのある人間に会ったこともなかった。難関の試験を突破し晴れて警察官になってから最初に与えられたリンチ事件を捜査する過程でたまたまひとりの青年と出会うまでは。ヒズミを名乗る彼の正体は数年前にターミナル前の橋の上で銃撃され、そのまま川へ転落した、ミスター・ノーザンの所有するDGナオだった。ただし当時すでにDGナオの耳と尾はなくなっていたらしい。ミスター・ノーザンの意向か、事件はまったく報道されなかったが、その時に負った傷が原因でミスター・ノーザンが亡くなったことは大々的に報道された。死因はDGナオともつれ合った際に噛まれた首からの多量の出血だった。
一方、幸運にも急所ではなく肩口に銃撃を受けたDGナオはそのまま下流まで流され、濾水センターの予備のパイプの方に引っ掛かり一命を取り留めた。もしも本パイプに流れ込んでいたなら誰にも発見されないまま死体は腐敗しただろう。予備パイプの奥には33Hへの入り口があり、そこを通ってDGナオは命拾いをしたのだ。
撃たれた時の衝撃か、濁流の中で何かに頭を強く打ち付けたのか、DGナオは33Hへ辿り着く前までのすべての記憶を失っていた。33Hではヒズミを名乗り、ミスター・ノーザン似の男を見つけては地下へ連れ込み殺害した。その死体をまたわざわざ地上へ戻すのはどうしてだろう、ラビは叔父のシウンに訊ねた。
「早く誰かにつかまえてほしかったんだよ」、相変わらず姪の家に居候し続けその上新しい仕事を探そうともしないシウンはそう答えた。
「そういう気持ちが、どこかにあったのかも知れない。あくまで想像だけど」
それでもラビが本気で追い出そうとしないのは、シウンがしばしば事件について的確な助言を与えてくれるからだ。
「叔父貴はこの事件についてもっとたくさんのことを知っている気がするな。レオ氏とだって実は面識があるんじゃないの?さらに疑わしいことと云えば、叔父貴はヒズミを知ってたんじゃないの?あたしにこの事件を何とかさせたいんじゃないの?」
疑念を並べ上げるラビだったが、シウンは曖昧に首を横に振るだけで手がかりをくれなかった。
「もしかして、そのことと叔父貴が捜査官を辞めたこととは関係あるの?」
「鋭いね」
「鋭い?・・・ふうん。じゃあ、そうなんだ」
今日は遅くなるんでしょ、と訊ねてくるシウンに返事をして、ラビは2DKを出た。
小型のカメラを鞄の中に忍ばせて。
33Hへの入り口はすぐに見つかった。
以前ふたりで会って別れた後にヒズミを尾行したのだ。
フードを目深にかぶって顔を隠しながら、ラビは地下街の大通りのできるだけ端を歩いた。地上にいるのと変わらない。見上げれば太陽ではなく電灯が光源だが、お菓子を売る店や衣類を売る店が並んで、通りは賑わっている。誰を気にすることもなく店で買い物をしたり広場で遊んでいるCTやDG、RB。
耳と尾はあるが首輪を付けている者はいない。
「宝の島だ」、ラビは鞄に開けた穴にカメラのレンズを当て、何度もシャッターを切った。
ふと顔を上げた時、人ごみの向こうにいるCTと目が合う。
白い耳と尾。
やばい。
直感的に知ったラビは鞄を体の前に持ち直し、来た道を戻る。
慌てているのですれ違う度に肩がぶつかるが、謝っている暇はなかった。
そうしている内にたちまちリツに追いつかれる。
「寄るな!」、しかし振り上げた手は掴まれ、大通りから逸れた薄暗い小径へと連れ込まれた。
「・・・あいたた、頼むから、おとなしくしてくれ。あんたと話がしたいだけなんだ」
リツは両手を合わせつつ頭を下げた。
相手の出方を見て落ち着きを取り戻したラビが喚くのをやめると、ようやくリツは顔を上げた。
「話が早い。さすがミズノ・ラビだ。警察長の一人娘でリンチ事件の担当官。ヒズミと出会って33Hの存在を確信したんだろう」
「・・・どうして、それを」
「ふん。・・・そうか。ヒズミ、いや、ナオがあんたを気に入るわけだ。あんたはレンにそっくりだ」
その名を聞いたラビは思わず鞄を落とした。
ミスター・ノーザンの家から持ち帰った写真とテープ。
再生した記録の中で、何度も呼ぶ声がした。
(レン、いまはしかたない。レン、いうとおりにしよう。レン)。
あの声は、ヒズミ。
おそらくヒズミの声だ。
事件が起こったのはその直後だ。
テープに先に目を通していたシウンに「ラビは見ない方が良い」、と珍しく真顔で止められたからまだ見ていない。
何が映っていたのだろう。
あのビデオに映っていたのは、
だれ。
なに。
ラビが油断した隙をついてリツは足下に落ちていた鞄を素早く取り上げた。大通りの方へ投げると、待機していた仲間がキャッチする。
ラビはしばらく呆然としていた。
「写真を証拠に一網打尽の手柄を立てられるってわけか?」、リツが忌々しそうに唾を吐く。
「おれたちはここをヘヴンって呼ぶんだよ。あんたがたった一階級昇進する時に、ここで数え切れない命が失われるんだよ」
じわじわと喉元に伸びてきた手を振り解くと同時に、ラビはリツの鳩尾を蹴り上げた。
「さわんな。なめられんのは、うんざりなんだ」、腹を抱えたリツの背中に、続けて踵を落とす。
遠巻きに様子を伺っていたリツの仲間が、思いがけない反撃を開始したラビを取り囲んだ。
「何だ、お前ら。ひとりを相手にそのざまか。どこからでも掛かって来いよ」
ラビが凄みを利かせた時、取り囲んでいた輪の形がいびつに歪んだ。
「・・・ヒズミ?」、リツの言葉に、ラビを取り囲んでいた集団の全員が一斉に腰を低くする。
「ヒズミさん、こいつ、警察です」
「ここの様子をカメラに治めて手柄を立てようってんだ」
「生かしたまま帰すわけにはいきません」
「次はきっと仲間を連れて来ます」
「どうします、ヒズミさん」
状況を察知したヒズミはラビを見た。
次にリツを見る。
その視線からヒズミが何を云うかいち早く察知したリツは呆れて眉を顰めた。
「ごめん」
ラビに向かって頭を下げたヒズミを、連中は一瞬呆気にとられたように見つめる。
しかしここでヒズミに逆らう者はいなかった。
ヒズミはWOLVESの頭だ。
WOLVESの頭が闘いもせず謝るなんて、よっぽどの相手なのだ。
連中はしぶしぶながらもラビが通れるよう道を開ける。
リツが目配せすると、CTが出て来てラビに鞄を返した。
「あたしはレンじゃない」、ラビはすれ違いざまヒズミに云う。
頭を下げたままのヒズミは小さな声で「ずっと、分かってた。ごめん」と返事をする。
大通りに戻りフードをかぶりなおしたラビは、何食わぬ顔をして出口へ向かう。途中で子どもを抱えた母親とすれ違った。母親の腕に抱かれた子どもがラビに向かって、にこり、と笑った。頭にはやはり母親と同じ耳があった。
ついさっきリツが云っていた「命」に、この子も入るのだろうか。
何も知らない子どもに手を振られたラビは、声を上げて泣きたくなった。