その日は朝から曇り空だった。
シウンの運転するワゴンの窓に小さな雨粒が音を立て始めた時、ようやくラビは目を開けた。
ゆうべはあまり寝ていない。間もなく夜になる頃掛かってきたのは用件だけの電話。ヒズミは待ち合わせ場所を濾水センター前に指定した。初めて会った場所。ラビは「分かった」とだけ返事してすぐに切った。
何もかも悪い夢だと良かった。
夕食も殆ど食べ残したラビを心配したシウンがスープをつくってくれた。飲んだ後は少し眠ったが、浅い眠りはラビにもっとも残酷な夢を見せた。
「・・・誰も、救ってくれなかったのかな」
ラビが呟く。
「叔父貴、ねえ、どう思うの」
前を向いたままのシウンはエアコンディションを調整した。
気休めは無駄だと知っているシウンは、しかしそのまま肯定もせず黙ってワゴンを走らせた。
脳裏にはあの事件の出来事が蘇る。
通報を受けて駆け付けた現場は一種異様な雰囲気に包まれていた。
ついさっき耳と尾を切り取られたばかりの小さなCTが部屋の中央で俯せに倒れていた為もあったが、その部屋に足を踏み入れた瞬間から得体の知れない不快感、ぬるりとまとわりつくような空気を肌で感じたのだ。椅子は部屋のあちこちに点在し、その中央に、さながら舞台のように、円形のスペースが確保されていた。通報者のミスター・ノーザンが青ざめた顔でシウンの肩を掴む。
「DGが逃げたんだ。捕まえてくれ」
今思えばミスター・ノーザンは演じたのだ。
そしてシウンは思い込んだ。このCTをころしたのは今逃げているDGだ、と。
DGが部屋を出てからはまだ数分も経っていない。それに首輪がある。ミスター・ノーザンに現在のDGの居場所を確認してもらい、向かう先はモールだと予想した。現場は後から到着する仲間が処理してくれるだろう。シウンはDGが使うだろう経路を頭の中に描きながらバイクに跨った。
ナイフを握ったDGの後ろ姿をシウンが発見したのは、モール前の通りに通じる小径の奥だった。道が狭く入れないのでバイクから降り、全速力で追い掛ける。足の速いシウンはすぐにDGに追いつき、ナイフを握る方の手首を掴んで体ごと壁際に押さえつけた。
「ノーザンのDGだな」、シウンの問いにDGは意外と素直に頷いた。
「はい」
「お前を連れ戻さないとならない」
「・・・」
DGはやはり素直に頷いたが、ナイフは手放そうとしなかった。シウンはふと、見下ろした首筋に痣を発見する。次に、服のポケットから血の付いた白い尾が覗いていることも。
尾は、あの部屋の中央で俯せになっていたCTのものだろう。
「・・・逮捕するわけじゃないから。話は後でちゃんと聞くから。とにかく今は、そのナイフから手を離してくれないか。怖くてかなわない」
俯いていたDGがゆっくりと顔を上げた。
血の付いた前髪の隙間から覗いた目がシウンを射抜く。
切り付けるように鋭い視線。
孤独で。
頼るものを知らなくて。
ずるくなれず、まっすぐにしか生きられず、日に日に研ぎ澄まされた。
「けいさつのおにいさんの、うそつき。おれを捕まえるくせに」
きつい目に睨まれたシウンは、もしもの事態を考えながらDGを押さえ付ける手に力を込めた。
「でも、良いよ。おれを捕まえても良いよ」
かと思うと忽ちDGの目は伏せられ、諦めたように耳も萎れた。
しばらくしてから、泣くのをこらえているような震え声が、吐くように哀願する。
「でも、つかまえてください、ちゃんとつかまえてください。おれをつかまえるんだったら、一番さいしょに悪かった人と、次に悪かった人と、その次と、次と、おれを悪くした人と、全部つかまえてください。そうしないと、また、レンみたいな子が出るから」
雨足が早くなってきた。ワイパーを掛けても絶え間なく覆われる視界。シウンは目を細めた。
確かにそうなんだ。一番最初に悪いやつをつかまえられれば一番良い。だけど俺達だって浮上してきたものしか見えない。君だって押し出された被害者なんだ。でも、あの時、俺は捜査官だった。あの時はまだ警察官だった。追い掛けた者は捕まえなきゃなんない。たとえ実際には罪を犯していなかったにしても。逃げている誰かの手を、いったん掴んだ癖に、どうして俺はまた離したんだろう。
うん、と答えられなかったから?
「うん、悪いやつはいっぴき残らず、おれが、つかまえてやるから、もうだいじょうぶ、二度と、絶対に、レンみたいな子を出さないから、安心しろよ」って、答えてあげられなかったから?
きっと、あの時、自分が人間であることを知ったんだ。
正義でもなければ、神でもない。
不完全ゆえの矛盾をはらんだ、私刑装置としての警察官、それが自分の正体。
濾水センターの前で待たされたヒズミは傘も持たずずぶ濡れだったが、ワゴンから降りて来たラビの姿を見ると嬉しそうに笑った。ラビは笑わなかった。遅れたことを謝りもしなかった。
「本当にごめん」。
ヒズミの第一声がそれだったこともラビの顔をしかめさせた。
「このあいだは、怖い思いさせてごめん」
「あれくらいどうってことない」
「・・・ごめん」
「もう良い」、ラビはヒズミの頬を平手で打った。
「お前、もう、謝んなくて良いよ。観たよ。テープ全部観た。あの子はお前がころしたわけじゃない。自分で舌を噛んだんだ。救いきれなかったことを悔やんでんだろ。でもそれだって、仕方ないよ。お前たち、あんなに小さかったんだ。リンチするのも、ミスター・ノーザンが憎いからだろ。あの時はどうしたってかなわなかったから今似たやつをやるんだろ。でも分かるよ。あたしだってたぶん同じことしたかも知れない。だから良いんだ。それと、あたしあの子にそっくりだったんだろ。だから電話したんだろ。でもそれも、もう良いよ。あたしはそれくらいのことで傷つかないから、もう何も謝んなよ」
早口に捲し立てた後で、ラビは一息吐いた。
「とにかく、今後一切、謝るの禁止。さっきは手のひらだったけど、次は拳で殴る」
雨が少しずつ弱まる。
「なあ。誰も、救ってくれなかったのか?」、ここに来る
までずっと考えていたことを口にする。
ヒズミが意外そうな顔をしている。
「どうしてラビが泣くの」
「泣いてねえ」
そうか、あたしは今、わけもわからず泣いているのか。
「・・・ねえ、ラビ。誰かを思い通りにしたいと思ったことってある?」
「何だ、いきなり」
「誰も、誰かを思い通りにすることなんてできないんだよ。おれやレンが、心まではあいつらのおもちゃになりきれなかったみたいに。でも、それは当たり前のことだよ。誰かを思い通りにすることなんて誰にもできない。救う、ということもそう。救う、って、誰かを思い通りにすることと順序が似ている」
ヒズミの手が伸びてきてラビは怯んだが、触れた温かさはいつもやさしく撫でるだけだったことを思い出しておとなしくしている。
「誰も、誰かを思い通りにできない。ひとりひとり真摯に生きるしかない。その姿を見て、誰かが、救われた、と感じることもあるだけで。・・・おれには、友だちがいて、そいつは、おれのために、危険を冒して、一晩中一緒に走ってくれた。・・・だから、そういう意味では、おれはとっくに救われてた。あの時思い出すほどに忘れていたけど」
雨が弱まる。
少しずつ弱まる。
下ろした両手を揃えて差し出したヒズミの顔を、ラビは見上げる。
「その手は何」
「使命だよ、ラビ」
「・・・いやだ」
「悪くないひとをたくさんころした。だから、これは、君にとってのただしい使命だ」
なお手錠を取り出さないラビを見つめながらヒズミは、さらに両手を前へ差し出し云った。
「早くつかまえて。きっと、安心できるんだ」
運転席のシウンはステアリングの上で頬杖をつきながら、小雨に降られるふたりの様子を見ていた。
声は聞こえてこないがヒズミが両手を差し出しているのが見える。
「離してしまってごめんな」、呟いた声はワゴンの中でだけ響いた。
「あの時、君をちゃんとつかまえてやれなくて、ごめんな」
一度俯いたシウンが再び顔を上げた時、ラビが掛ける手錠が見えた。
雲間に覗いた太陽の光を受けたそれは、シウンの目にもきらきらと光った。