「モラトリアムの夜」
歩みを止めることは罪でない
それが永遠でなければ
そこかしこに春の彷徨
新調した制服に注がれる視線
ねめつけるみたいな暗鬱とした
夜の水族館で泳ぐ魚の鱗みたいに光る
姓名が同じな人物と知り合う
寝静まった夜に窓を開ければ
星たちの咆哮
割れんばかりの静寂に
両手で耳を覆って負けじと吠え返す
ぼくはまだ素知らぬふりで獣である
手記に書き付けるすべてが出鱈目だと分かっている
+
割れた瓶を誰も片付けないから
ぼくは瓶が割れていたことを知る
その形を知らなかったことを
これからも知り得ないであろうことを
思って泣かなければならないことを知る
新しく買ったソファで誰か寝ている
白い、波打ち際にできる泡みたいな毛布
灰色の氷を穿った光が
ひだまりを作ったようにして存在する生き物だ
割れた硝子を靴の底に踏んで
ぼくは裸足でなかったことを喜ぶ
神聖に近づいていける
一滴の血を流すこともなく
世界の歴史とは違って
ぼくは少しだけ意味のようなものが分かる
ひざまずいて青い頬を見下ろす
それは月の光
太陽の光を照らし返す月の光
目覚めてもあなたは覚えない
泣いたのは何のためであったか
覚えてはいられない
硝子ばかりの部屋で
裸足では到底歩けないこの部屋では
+
たりたことはない
一度も
しわしわの毛布に
きみはぼくと溺れる
とろけるみたいに
+
「すぐそこにあるかなたへ」
午睡から目を覚まし
世界はぼくの微睡みでたゆたう
隣室から咳が聞こえる
隔離された男の顔は知らない
咳はだんだんと苦しげに響く
船の汽笛が鳴る
逃げましょうか、
いきなり云って窓から姿現したら
あなたきっと吃驚して死んじまうだろな
古い打掛を毛布の上にかけて
あなたは錦のように輝いている
投げ出された手が白湯を求めて
夢の中から痙攣を連れて帰る
蘇生のたび傍に置いてください
産まれ直したみたいな瞳は
追憶ということをしなくなってく
不自由という自由から隔たってく
壊れてゆくものがすきだ
明かされない秘密がすきだ
ぼくは少しずつ大人になってしまった
だから今もそれを忘れない
乾いた咳が少しずつ大きくなりやがて遠ざかるように静まるのを
今日も目を閉じて聞き届けているのだ、あなたのいるであろう隣室より
死にかけた生き物の存在を知っているという幸福
自分がそれを知る側であるという事実がある不幸
夕暮れが世界を孕ませ陰影ができ
その陰影によってぼくの悪い血は光から匿われる
いつか望んだ気もする彼方はいつでもそこにある
遠い彼方はぼくの耳が聞こえる範囲のすぐそばに
+
「おやすみ前のおやすみなさい」
落日よりも先に
あなたはいってしまうだろう
忘れないと云って
ぼくはその約束だけ覚えているだろう
黄金色の海が
あの日の稲穂の群れのようだ
つないだ手を離したのは
また出会えるって信じたから
目から溢れるものがぼくのではなく
眠る前にぼくを思うあなたの血ならいいのに
三日月の光が少しずつぼくたちを引き寄せる
ある朝めざめたら誰もどこにもいなくなってる
+
「朝」
新しい街の新しい朝
遠くのためいきで目を覚ます
プラットホームに滑り込む電車
ぼくと夢の国を旅した夜明け
鉄道は少しだけ誇らしげに
彗星の尾のように光っているだろう
眠れた
初めて
一度も
怖がらないで
まだ誰も起きあがらないで
目覚めてはいても
家々の屋根の形がくっきりと伝わる
羽ばたく鳥がどこかへ向かう
昨日死んだ猫も
道路の隅で血を輝かせる
+
誰も振り返らない花に彩られたこの
道を歩いている時にだけ感じるこれは
忘れないでいていいものだ
覚えていてもいいものだ
誰も思い出さないが写真に残るこの
名前も知らないセーラー襟の青は
否定しなくていいものだ
恥じなくてもいいことだ
優しさのためにきょうも人は死に
幸せのために今日も人は殺される
悲劇が繰り返されなければ守れないものもあった
消えていく風景にアーク灯が光で翳す
特定の時代に特定の場所で名前ある誰かであったこと
いつかこの都市もなくなって星はまっさらになるな
百年先でも千年先でも
あってもなくても
絶対に
まちがえようのない予言
+
「氷流」
結晶の上に寝そべって
氷の河を流れていく
空はあらたな銀色を降らせ
突き刺さり
瞼を開いたまま彼は失明する
ありとあらゆる組み合わせ
偶然というにはあまりに偶然
天文学的な距離を
光も及ばぬ速さで
貫いておまえはぼくと出会った
口笛の音がはずれて
ふと考えてみる
とんでもないかんちがいではなかったか?
あの日
あの階段のあの踊り場で
そうだあれはとんでもないかんちがい
だ、
っ、
た、
氷上の磔刑に慈悲は無い
肉体は滅びながら明日の何かへなろうとする
象られて宿す形へ変容しつつありそれは止められない
胸郭上の刃物は水平線と僕に対して平行だ
爪の貝殻もかつての赤い肉も白い骨も伸縮する皮も
こう考えるぼく以外はもう別の場所へ発った
なるほど
これがそうか
絶対を取り上げられるということ
せいぜい紡いだ言葉がもうどこへも届かないこと
これがぼくの弔いなんだ
+
「追憶の迷宮」
暗号の檻にこもり
不明の符号を纏い
今日も無傷で済んだ
日付に黒い線を引いた
光を撮ろうと
レンズを向けると笑いが起こって
ちがうんだとそいつは云う
光そのものは残せないんだ
残せないんだ
軌跡だとか
影の対としてしか
ぼくは憂える
それから不気味に思う
爪が届く位置に近づけば
おまえをぼくは傷つけてやるのに
鉄の柵に押しつけた
眼球が爛れて隻眼になる
閉ざされた瞼の裏で今も
そうじゃないんだと誰か笑っている
+
「きみたちは泣かない」
泳いでいい川
渡っていい海
越えていい山
歩いていい道
眠っていい毛布
食べていい果物
読んでいい書籍
捨てていい思想
枯らさなくていい花
飛ばさなくていい飛行機
拾わなくていい骨
隠さないでいい血
その幸福を
きみたちは泣かない