朝、目を覚ましたぼくは今まで見ていた夢がどこからどこまでで、昨日の出来事が夢じゃなかったかどうか確かめる必要があって体を起こした。
 悪い夢を見ていた気がした。ぼくは何者かから逃げている。電車のような乗り物に乗って。それは夜空のように暗い線路を走る。時々、風の音をさせながら。だけどほとんど静かだったから、停まっているみたいだった。あるいは、深海に沈められた、ええと、なんだっけ。そう、産業廃棄物。見捨てられた、忘れ去られた、不要のもの。そんな物と一緒に、そんな物として、沈められた。
 あれは夢だったんだろうか。本当に。
 ぼくは不安だ。この不安をかき消すには今ここにあるものが現実だと信じ込ませてくれる何かがなくっちゃいけない。階下にはお母さんとお父さんがいるだろうけれど、それよりももっと身近に。


 

ヴァンパイアと暮らす




「リー・・・」。
 ベッドのシーツをかき分けるとリーは果たしてそこにいた。カーテンの隙間から射す光がたまたまリーの顔に降り注いでいて、慌てて閉めに立った。まるで何かから身を隠すみたいに二枚のカーテンをぴっちりと重ね合わせて、振り返ると、シーツにくるまって呪詛を呟いているリーの枕元に膝をつく。
「ごめん、リー。ぼくの不注意だ」。
「ちゃんと閉めただろうな」。
「うん」。
「一ミリの隙間も許していないだろうな」。
「もちろん」。
「おれは、太陽が嫌いなんだ」。
「知ってる」。
「とくに朝日が」。
「気をつけるよ」。
「二度と同じことを云わせるな」。
「努力する」。
「おまえを信じる」。
 それでもリーはしばらくの時間、顔を隠して何事かぶつぶつ呟いているようだったけれどそれはもしかすると朝日から自分を守るためのおまじないかも知れない。気が済んだのかやがてぼくの腕を引っ張った。
「血」。
「えっ」。
「血だ、ギン」。
「昨日やったばかりだろっ」。
 じりじり後ずさるとかえって相手を刺激してしまったらしく逃げ腰を掴まれた。ぼくの体重を腹の上に跨らせておいて自分は敷かれていながらもリーはこちらが折れるのが当然だといわんばかりに訴えるような目をしてくる。ぼくが結構好きな色の瞳に潤まれると、ぐっと言葉に詰まってしまう。
「・・・ギン」。
「な、なに」。嫌な予感がするが訊ね返さないわけにもいかない。
「おまえはスーパーに売ってあるもの全部食べられるかも知れないけどな」。
「う、うん」。
「おれはギンの血しか飲めないんだぞ」。
 う。
「昨夜、痛くはしなかっただろう?」。
 うう。
「でも。でも」。
 ぼくはしどろもどろだった。確かに痛くは無かった。最初だけ。だけど、だからいけないんだ。ぼくは時計を見上げる。時間はまだ十分にある。うん、だからそういう問題じゃないのに時計を見上げてしまった。
 視線を落とすとリーが捨てられた犬のような目でぼくを見ている。もっともリーはいつもだったら犬というより猫だけど。つまりこれは駆け引きなんだ。ぼくはなんとかこの状況を打破できないかと考え、断念した。できない。手っ取り早いのは、リーの云う通りにすることだった。と云うのも、いま腰を掴んでくるリーの握力に敵うべくもないからだ。知能じゃない、身体能力の差だ。くそう、今に見ていろ。大きくなって、リーに勝ってやる。
「仕方ないな。飲んでいいよ」。
 ぼくは渋々目をつむる。
 しかしいつまで経ってもリーが動く気配が無いので不思議に思って目を開けると、
「起き上がれない」。
「は?」。
「ギンから来てくれないと、困る」。
 どうしたってリーはぼくの意思で吸血を可能にするつもりなのだ。
 この際、抵抗は利口じゃない。現にリーがそれを望むなら。
 ぼくは寝間着の襟を肌蹴ると自分からリーの口元に首筋を押し当てにいった。位置は少し、誤ったかも知れないけれど。それでも後はもうリーが好きに動くのだから身を任せておけばよかった。
「朝は、少し薄いようだな」。
 すっかり満足したリーは顔を離してひとり言のように呟く。ぼくも聞かなかったふりをする。幸い、ひどい眠気には襲われなかった。そのへんは考慮してくれたんだろうか。
「そうだ、リー。日中はどうするの。どこか出かけるの?」。
「留守番をしてやる」。
「え、ずっと? それ退屈じゃない?」。
「かもしらんな」。
 だから銀はおれに何か楽しいものを与えてから学校へ行くのだ、と告げるリーは口調と裏腹に少しさみしそうにも見える。
 考えた挙句ぼくは部屋のクローゼットからジグゾーパズルの箱を取り出した。いつか作るつもりで買ってもらったのだが、結局そのままにしておいた。難しいルールがあるわけでもないし、これなら良い時間つぶしになるだろう。
「何だ、これは」。
「パズル」。
「完成させたら褒美があるのか?」。
「そういうルールじゃないよ」。
「では何が楽しいのだ? 何が面白くてばらばらの絵を元通りにしなくちゃならん?」。
「完成じゃなくて途中を楽しむものだよ」。
 ぼくの言葉をリーはしばらく反芻しているようだったが、
「完成がなければ途中もない」と呟いた。
 いま気づいたけれどリーは上半身裸で、ベッドのシーツを体にまきつけた格好だった。
「そうだ。服、お父さんの借りてきてあげようか」。
「いらない。銀のにおいがするからこれがいい」。
 パズルの箱を逆さにしたリーは床に散らばったピースを均すため掌で撫でた。見下ろせばその姿はどこか魔法使いみたいだった。
「そうだ、分かった」、咄嗟にぼくは口に出していた。
「ルールを決めようか。完成させられたら、リーの云うことなんでも叶えてあげる」。
 案の定、リーが反応する。床に垂れた髪を鬱陶しそうに結わえ始めたところだった。
「本当か」。やけにきりっとした真面目な表情でリーが確かめてくるからぼくは前言を撤回したい衝動に駆られる。でも、二言は許されない。ぼくはつとめて寛大に頷く。うん、なんでも。
 せっかく張り切って請け負ってあげたのに、リーは今度はさみしそうに俯いた。
 まったく、何なんだよ、もう。
「ねえ。何を叶えて欲しい?」。
「じゃあ、忘れさせてくれ」。
 聞き間違いかと思ったがぼくは黙っておく。何、と質問すればリーは繰り返してはくれないような気がした。だから黙った。この沈黙だけがリーからもう一度、同じ意味の言葉を引き出してくれると分かっていた。
「おれは、もう、忘れたいのだ」。
「・・・何、を?」。
 さっき黙っておくと決めたばかりだったのにぼくはうっかり口にしてしまう。リーの指先は裏返しのピースを表に向ける作業に取り掛かっていた。ゆっくりと、その色を、図柄を、正体を、あらわにする一つ一つのピース。一枚の絵がどんなものであるかなんて、完成まで分からない。たとえパッケージに記載されていたとしても、そのとおりが出来上がるなんて、実際には保証できないということを、どうしてみんな忘れちゃってるんだろう、ぼくも。
「昨日、おまえは皺だらけの手でおれの髪に触れた。今日、おまえは幼い肌でおれに血を吸わせる。明日はどうなる? 明後日は? たぶんおれは、呪われているんだ」。
「リー・・・」。
 何か声をかけたかったけれどどうかけたらいいのか分からなかった。
 言葉の意味も分からなかった。
 ぼくが何も云えずもじもじとしていると階下からお母さんの呼ぶ声が聞こえる。
「銀、早くしないと学校に遅れるわよ!」。
 今行く、と返事する。制服に着替えながらぼくはリーの様子を窺うけれど、もうさみしそうには見えなかった。
 だからぼくもリーに、ぼくがそのルールを守るために何をしたらいいのかを訊ね損ねてしまったんだ。
 学校へ行く気が失せる。
 ぼくは吸血鬼と暮らしている。

111016